昭和20年代卒業のOB座談会

提供者: 昭和27年(1952)-岸本駿二。 区分: 寄稿文

 

日  時 : 平成21年(2009)2月20日(金)  11;30~16;00

場  所 : セントポールズ会館2F「芙蓉」

出席者 :

昭和23年 3月卒       清隆彦

昭和25年12月卒   橋本幸雄・土屋篤・山本実・原田博司

昭和26年 3月卒  飯塚繁・迫哲夫・平山照康

昭和27年 3月卒  一條正志・阿部正夫・橋本幸信・岸本駿二

昭和28年 3月卒    矢崎清治

座談会出席者 13

進行役 : 小野眞義(S31)・濱野公哉(S42)

同席者;瓦林聖児(S34)・出口誠之(S42)・浅見豊(S49)・原田豊(S54)・白寄誠爾(H2)

座談会開会  13;00

(小野) 本日はお忙しい中、お集まりいただき誠に有難うございます。7年後に創部100周年を迎えるにあたり、皆様に学生生活や庭球部の活動状況など、お聞かせ頂きたいと思います。

(濱野) 今日お集まりいただいた方々は戦後のドタバタの中での立教テニス部という位置づけになろうと思います。テニス部時代のことなど大先輩の清さんから順次お聞かせ下さい。

 

(清)  昭和18年に入学、直ぐに庭球部に入部。部長は経済学部長の河西教授、主将は吉仲英明さんでしたが、戦争中でテニスどころでなく、十条の陸軍造幣省や北海道の乳牛飼育の農家に勤労動員で行き、終戦直前に東京に戻りました。空襲で家は焼け、池袋駅から立教までの間も焼野原。昭和21年春から部活が再開されたけれども、ボール・ラケット・シユーズが揃わず苦労しました。テニスコートはチャペルの隣に4面でした、でもそこもタッカーホール建設計画が持ち上がり昭和21年9月に現在小学校が在る場所にコート4面作って移転。更に小学校舎建設のため昭和23年春に現在の理学部の南側グランドにダブルス4面・シングルス1面を作って移転。部活動予算不足の中で2度のコート移転もあり、費用面で随分苦労しましたが、今となっては懐かしい思い出です。

(橋本幸雄)25年12月卒業です。学校制度が旧制から現在の6334の新制に変わったため変則の12月卒業になってしまって、お陰で次の26年3月卒とは就職に苦労した年代です。立教中学で硬式をやり、昭和20年大学予科に入学、戦争末期で部活動禁止。庭球部に入ってテニスが出来るようになったのは21年春からでした。清さんが言われたようにテニスコート移転続きで大変でした。部の財政のためダンスパーティをやった、22年頃学食でやった時は床がボコボコで不評だったが、そのあと目黒の雅叙園や新橋のフロリダとか一流のホールでもやった。テニスの話ですが、確か24年夏と25年夏と2年続けて戦後初めての夏合宿をやりました。食糧難、おまけに出掛ける予算も無いし、で体育館の2階に畳の大部屋があって、柔道場だったと思うが、布団を持ち込んでの合宿。最終学年の25年7月同志社戦で京都に行き、確か5-4で勝って、先輩に旅館で祝勝会をやってもらった。いろいろあるがこの位で次の土屋に。

(土屋)  25年12月卒業。ご無沙汰して申し訳ありません。私は戦争中の昭和19年に出来た立教理科専門学校(今の理学部)に昭和20年4月に入学した。そして一ヶ月ぐらい授業を受けて5月から勤労動員。川越の中島飛行機の子会社、その工場で終戦を迎えた。それから秋になって大学予科に編入出来た。そこで山本と一緒になった。庭球部に入ったのはその翌年21年の秋だったと思う。確か10月ぐらい。

(山本)  俺は土屋とずっと一緒だよ

(土屋) テニスはやった事がなかったけど庭球部に入った。 あと印象に残った事として、五味淳芳さんの下

でサブマネを、そして25年に橋本がキャプテンで、私がマネージャーで、部のお金には苦労していた。

冬に霜が降りるので春先に掘り返す必要がある、コート造りをお願いしていた造成業者の名倉さんに毎春

頼んでいた、その費用が当時学校からの予算が約5万円、名倉さんへの支払が約20万円、非常に厳しい

財政だった。

(原田) 昭和20年4月に入学しました。学徒出陣と勤労動員で誰も居ない状態だったけど、私は柔剣道初段の有資格者で“大学に残れ”と言われて勤労動員にも行かず終戦まで大学に居ました。戦争が終わって暗い時代から明るい時代に入っていった。各運動部が勧誘のビラをまいていて庭球部に入部した。コートは現在タッカーホールが在る場所、ラケットは無くて先輩から譲り受け、ボールは毛が無くなるまでクリクリになるまで使い、シューズは配給制で靴底に直ぐに穴が空く、そんな状態でテニスをしていました。

OB・先輩の指導は厳しく、運動部には軍隊色が残っていたね。コート移転の話が出て、今の小学校の場所に4面、部員も動員され名倉さんのところと一緒になってテニスコートを造った。そうこうしているうちに小学校を建てると言うことで、約1年半後の昭和23年春に理科専(現在の理学部)の南側グランドのところにコートを、また部員動員で造りました。我々はテニスをやるよりコート造りをしていた時間の方が長かったように思う。就職は田中憲之先輩(S14)が常務の会社に入ったけど4年で倒産、その後日本道路(株)に移り、ハードコートの開発をしたが、そこでまた名倉さんに大変お世話になった。

(濱野) 現役時代にテニスコート造りをされ、仕事でハードコートを開発とは、素晴らしいテニスと係わりを持たれた訳ですね。次に山本先輩お願いします。

(山本) さっき話した土屋と同じ経歴です。終戦になって各部が募集活動をしていて、お金が無いからと水泳部、でも一日行っただけで結局庭球部に入った。その時小学校の場所にコートがあって、南側にバックネットが無く、草ボウボウでひどい状態、ボールボーイは大変だったな。2年先輩の大林さんは海軍上がりで凄く怖くて、土屋が殴られたこと覚えている。同期でキャプテンをやった橋本は、練習熱心、運動神経はあまり、でもテニスはうまくて強かったな、即レギュラーだった。入部した時は20人ぐらい居たけど、コート造りとボールボーイでばかり、怒鳴られて結局6人だけ残った。でも卒業まで庭球部で「良かった」ことは間違いない。当時皇居内にパレスコートがあって、毎日トーナメントが開催され、その時にミックスダブルスに倉光安峰さんが奥さんとペアで出場されていた。奥さんは綺麗な方で、子供さん連れで来ていたけど、それが倉光純(‘63)だね。

(迫) 昭和21年4月に大学予科に入学した。合格発表を見ていたらバッチを見て“お前湘南中学か、俺は先輩だ、庭球部に入れ”と言われて入部した。声を掛けたのは江島平八さん(S21)で、後から分かったけど江島さんは湘南中学のOBじゃなかった。今の小学校の所のコートは、道路側には塀が在ったけど南側はバックネットが無くて、うしろは畑と草むら。先ほども話に出ていたようにボールボーイは大変、ボールは貴重品だったからね。

(土屋)ボールとテニスシューズの値段はほぼ一緒で300円前後、ボールはスラゼンジャーで輸入品、配給だったな。少し後に日本製のボールも出てきたけれど。

(迫) とに角、コート造りと球拾いだけだった。コート造りでは名倉のオヤジが張り切っていたね。土を盛って平らにならして、最初はローラーが重くてね、土が付かないに一人が後ろから箒で払いながら、5・6人でローラーを引っ張っていた。3年ぐらいでやっとボールが打てた、それも毛の無いツルツルのボールだったな。ニューボールは試合のときだけ。橋本さんの思い出として、明治とのリーグ戦、NO1に勝敗が決まる試合だった、相手は津村。橋本さんは走りまくって勝った。その時キャプテンだった天野隆一さん(S25)と抱き合って喜んでいた姿、よく覚えています。

(平山) 21年4月に入学、どの部に入ろうかと悩んでいた時、平野謙哉が前の席で“一緒にテニス部に入らないか”と誘われて12月に入部した。とにかく印象としてラケットは必要なく、ボールボーイばかり、櫻井弘さん(S22)・石井三代治さん(S23)によく怒鳴られたな。4時過ぎ頃からレギュラー以外の部員が打てた。ツルツルのボールでね。さっき合宿の話が出ていたけど、終戦直後で米は配給、11日3合合宿に持ち寄りだった。パンが出た時があって、暑さで腐って糸をひいていてお腹をこわした。そんなことを思い出す。

(飯塚) 女房に先立たれて一人暮らし、週3回人工透析やっています。理科専の2期生で、1年上の笠原さんと中学の同級生だった。大学は勉強するところと思っていたが、笠原さんから“中学のとき軟式だったな、庭球部に入れ”と言われ、見に行って面白そうで入部した。橋本さんは熱心に練習して居られ、正月も一人で餅を持って来て泊まり込みで練習していた。その相手をさせて頂いたこともあった。新進トーナメントで優勝、インカレにも出場している。結構強かったのだなと思っています。卒業して田中富弥先輩(S23)・橋本幸雄さんに誘われて東伏見テニスクラブに入れて頂き、45歳以上のベテランで5年連続優勝しました。私にとってテニスは掛け替えの無いものでした。

 

(一條) 中学は大阪で最初から硬式テニスだった。いろいろあって当時中学5年のところ6年かかり、19歳で陸軍に放り込まれ、直ぐに中国戦線へ。昭和21年に復員。立教大学を受け、合格した日にコートへ見に行ったら、櫻井さんに“テニスやっていたのか”と声を掛けられて入部することになった。兵隊上がりで同期と年齢が4~5歳も違っていて話が合わない、周りの人達からは嫌な奴だと思われたと思う。リーグ戦には割合早くから出ていた。ダブルスは2年上の河野英彦さん(S25/12 )や同期の平野譲と組んだ。コート造りの名倉のオヤジが農林中央金庫のテニスコートの世話をしていて、新卒を募集していることを教えてくれて、農林中金に就職した。ベテランになって毎日トーナメントで優勝、全日本にも出場した。

(阿部) 兄は中退しましたが庭球部で櫻井弘さんと組んで新進トーナメントで優勝しています。そんなことで家で壁打ちしたりしていました。昭和22年に入学・入部しましたが、少しは打てる状態でした。今考えると欲が無く闘争心に欠けていた。リーグ戦は、ダブルスで河野さんと一條さんが組んでいたけれど、河野さんが風邪で欠場され代役で出場したことがある。卒業してからサウジアラビヤに5年いて昭和50年ごろ現地のミックスダブルスで2回優勝した。いま葉山に住んでいて逗子・葉山立教会のテニス同好会に入っています。

(橋本幸信)義兄が庭球部だったので庭球部に入りました。1年の頃はボールボーイばかり、それにボールはツルツル、殆どテニスらしいテニスはが出来ず、2年になる時にコート移転でコート造りの重労働。1年上の松井恒夫さんが学連マネで、その手伝いをさせられてテニスは余り出来なくなった。

(岸本) 昭和22年4月大学予科に入学、同時に庭球部に入部しました。コートは今の小学校の所、そして翌年現在の理学部のグランドに移転、部員動員で重労働だった。確か同期15人ほど居たと思うが残ったのは6人。テニスは結局ものにならず、話せるような戦績は皆無です。昭和25年の夏の日曜日に出て来たらキャプテンの橋本さんと立教をアメリカンフットボールで日本一にした名コーチのオークス教授の二人だけ、お二人とシングルス。懐かしい思い出です。4年の春、運動部員が受ける健診で初期の肺結核が見つかり、練習は出来ず、甲府での昭和26年夏合宿も行っただけ。同志社戦も応援で行きました。同志社の鞍馬コートはブヨが多くて、立教は半袖・半ズボンで皆刺されていましたね。テニスは今もやっています。昨年(平成20年)8月軽井沢会のコートで、天皇・皇后両陛下とミックスダブルスのゲームをさせて頂きました。皇太子時代を含めると7~8回目です。

(矢崎) 大学に入った時は、予科3年・学部3年の旧制でしたが、予科1年終わった時に新制に変わって新制大学の1年にと1年生を2度やりました。私の時代はコートの新設も無いし、世情も安定していて、ゆるやかな部生活でした。中学時代水泳で少しは名前が通る位でしたので、水泳かテニスか迷ったけど、結局庭球部にしました。途中から松井恒夫さん(S26)の後を継いで学連マネージャーをやり、お陰でテニスは殆ど出来ませんでした。

(濱野) 皆様にお話頂きましたが、ここからはテーマを決めて進めたいと思います。当時の監督・コーチについてお聞かせください。

(橋本幸雄)当時は監督・コーチは居なかった。自主練習で、OBの藤澤さん(S6)・北原さん(S6)・小宮山さん(S6)・佐久間さん(S10)・大川さん(S11)あたりがよく来られご指導頂いた。

(浅見) 藤澤陽蔵さんは昭和4年の第1回のインカレで準優勝です。

(迫) 北原さんは常に腕をしっかり伸ばして打って居られた。バックが強かった。

(清) 正式なコーチの初代は関大OBの倉光安峰さんでしょう。コーチとして指導頂いたほか、小西一三(62)を立教に導いてくれて、倉光純(63)・哲(67)の二人の息子も立教に、テニス部の恩人だ。

(濱野) テニスコートについて話が出ていましたが、整理するとどうなりますか。

(岸本)私が調べたところでは、大正5年大学が築地から池袋に移って、最初に診療所のころに1面。次に大正13年、今のタッカーホールの所に4面と中学校の向かい側の聖公会神学院のコート2面を併用。戦争での中断があって、戦後昭和21年に小学校の所に4面。昭和23年に理学部の所にダブルス4面とシングル1面の計5面ですね。我々の時代はそこまで。昭和21年にタッカーホールの建設計画のため小学校の所に移りましたが、実際にタッカーホールの完成は昭和29年。我々が卒業するまでその場所は、体育館寄りのコート2面は軟式庭球部が使っていて、道路側の2面のところはバレーボール部のコートに変わっていました。あとから考えると、庭球部が小学校の所に移る必要がなかったことになる。

(阿部) 理学部のところのコートが出来たとき、コート開きのセレモニーをやりました。チャプレンが来てお祈りし、賛美歌も歌った。その時私が撮った写真持っています。

(橋本幸雄)その2~3か月後だと思うけれど、新しいコートを祝って全日本優勝者の中野文照さん(法大OB)に来てもらって、私が相手でエキジビションマッチをした。スコアは忘れた。

(飯塚)部室は、初め当時の理科専(現理学部)の1階、小学校のところにコートを移したとき、そこに小屋が建っていて、確か斎藤さんという方が住んで居られて、その一部を部室にした。理学部のところにコートが移った時、新しく小屋を建てて部室にした。

(濱野) テニス部の活動の運営資金はどうしていましたか

(土屋) 私の記憶では、資金集めとして先に話に出ていたけど、ダンスパーティを年2~3回、1回300人位チケットは500円、1回やると5~10万のプラスになって部の費用に充てた。

(山本) ダンスパーティは体育会の多くの部で資金稼ぎのためやったね。だからチケットを売ったり買ったり、持ちつ持たれつでした。割り当てられたチケットを売りさばくのに皆苦労していた。

(土屋) 夏休みにサッポロビールにアルバイトにも行った。

(濱野)年間どのくらいの予算で活動していましたか。

(土屋)ボール代に20万、コート費用に20万位はかかった。後に名誉会員になった上村甚四郎さんと言う方からも支援を受けた。金額は覚えていないけれど、立教のOBではなかった。

(橋本幸雄)上村さんは会社社長で私の家と近かった。テニスが好きな方だったね。

(土屋)多くのOBの方にも、財政面で支援頂いた。

(濱野)庭球部長の河西教授について伺います。

(平山)随分長く部長をやって居られましたね、いつ頃部長になられたのかな。

(岸本)記録によれば、庭球部が1927年満洲に一か月遠征したときは前任の斎藤茂教授が部長で、遠征には前田副部長が同行され、その翌年1928年(昭和3年)に河西教授が部長に就任されています。

(浅見)1968年か69年(昭和44年)まで部長をやられました。40年か41年間ですね。

(橋本幸雄)就職活動の時、先生から自筆毛筆の推薦状を頂いた“必要があったらこれを使え”と、大変有り難かったが、使う機会が無かった。河西部長は“テニスやっている”“あっそう”が口癖だったな。

(岸本)河西教授は経済学部長で授業は「経済原論」。必ず出席して前の方に座るようにしていた。

(平山)先生の授業は固くて眠かったけど、単位は間違いなく貰えたな。

(濱野)ほかに何かありますか。

(清) 5月に立教祭があって、OBで歌手の灰田勝彦やデイックミネが来て時計台をくぐった藤棚の所で、「鈴懸の道」「ダイアナ」などを唄った。当時はお二人は大人気、大いに盛り上がった。

(岸本)そのとき聞きましたよ。素晴らしい歌声で感激した、OBに凄い方が居られるなと。立教祭と言えば、写真に残っていますが、迫さんが女装してコートに来ていましたね、あれは何だったのですか、

(迫) カルメンをやったのだよ。

(橋本幸雄)立教祭とは別に、運動部対抗の運動会もやったね、豊島園や神宮で。

(飯塚)ボクシングやバドミントンも、他に何をやったかな。バドミントンで優勝したけれども。

(橋本幸雄)リーグ戦のことが出ていないけれども、戦後昭和21年からリーグ戦が再開、1部は法・早・慶・東・立・商(現一橋)の6校だった。23年に4校制になって立教と商大が2部に落とされた。

(阿部)昭和26年、我々の時に2部で優勝して、東大と入れ替え戦をやったけれど上がれなかった。

(山本)当時ラケットは殆どフタバヤ製のウッド。ガットはシープしか無くて湿気や雨に弱くてよく切れた。

(橋本幸雄)切れたところだけの継ぎ張りだった。切れた1本だけ継ぐなんて今では考えられない。ガットを継ぐ人がよくコートに来ていて、教えてもらって自分でもやった。

(原田)二又交番のそばから池袋西口まで焼野原、そこに闇市が出来ていてリヤカーで焼き芋を売っていた、それを食べて市川の家まで帰った。食べ物の無い時代でいつも腹をへらしていた。

(阿部)闇市で食べるものは、焼き芋、ふかし芋、芋餡の今川焼、そんなところでしたね。全部さつま芋だ。

(岸本)空襲で、いま中学校と池袋立教高校の在る場所に聖公会神学院があったけれども焼けて瓦礫の山、大学正門と道を挟んで向かい側、いま大学のキャンパスになっている所にあった豊島区立第5小学校も全焼、立教が無傷だったのは奇跡としか言えない。当然だけれども街も大学も随分変わった。

(濱野)いろいろとお話頂き有難うございました。これで座談会を終わらせて頂きます。