2016年 立教大学体育会テニス部百周年に寄せて

提供者: 昭和60年(1985)-藤原誠之。 区分: 寄稿文

 
 立教大学体育会テニス部百周年おめでとうございます。100年というのはとてつもなく長い期間だと思いますが、その中の4年間を自分たちが作ってきたとか思うと、今更ながら歴史の重みとその流れの中にいるありがたさを感じます。

 私は立教中学に昭和50年に入学しました。背番号3にあこがれて立教に入りましたので、当然野球部に入るつもりでしたが、当時テニス部の部長であった西村先生が中学一年の担任になり、誘っていただいたのがきっかけでテニス部に入りました。西村先生には厳しく指導していただきましたが、「巨人の星」が大好きだった私は、ローラー引きも含め厳しい練習が大変楽しく、またテニスの面白さにすぐにのめり込みました。西村先生は立教生だけでなく他校の生徒でも態度が悪ければ本気で叱っていました。このような先生にご指導いただいたことはすごく幸運だったと今でも感謝しています。我々の時代の立教テニスは、立教中学の西村先生の教えを受けた生徒が高校、大学とテニスを続けて、立教テニスの背骨を作っていた気がします。

 また、2学年上には庄野先輩、1学年上には藤井先輩がいて、大学卒業まで常に目標として前を歩いていてくれました。お二人が全国中学、インターハイ、インカレ全国レベルで上位を争っていたことが、あこがれでもあり、自分もがんばらなければというモチベーションになっていました。

 大学では、私の同期は立教高校から7人、それ以外から5人プラス女子マネ2人の計14人おり、それぞれ個性的で面白く、いいやつばかりでした。大学に入った頃の最上級生は見かけは完全に「おっさん」でかなりおっかなく、酒・たばこ・麻雀なんでもありで、やはり高校までとは全然違うなあと驚きましたが、同時にすごく楽しい魅力的な先輩たちでした。

 一年生の時のリーグ戦では、二部優勝で早稲田との一部入れ替え戦に臨みました。このときの早稲田は白戸選手、大西選手の柳川出身のインカレチャンピオンと大地選手、佐々選手、梶谷選手、などすべてインカレ・ジャパンでそろえており「何で下の入れ替えにでてくるの?」というチームでしたが、我が立教はダブルスNo.2で庄野・大井組が楽勝し、No.1では田鍋・藤井組が白戸選手・大地選手のジャパンペアにまさかの(すみません)金星を挙げて、ダブルス2-1とリードしました。ちなみに私は坂井先輩と組んでダブルスNO.3に出させていただきましたが、大西選手・佐々選手ぺアに6-06-0、わずか15分の史上最短記録を打ち立てて敗れました。

 シングルスは一進一退の攻防となりましたが、田鍋キャプテンが大西選手に、庄野先輩が白戸選手に敗れ、4-5で惜しくも一部昇格の夢が断たれました。この時のオーダーで、早稲田のシングルスでは大西さんの方がくみし易く、プレースタイルでもかみ合う庄野さんを大西さんに当てた方がよかったのではないかという声がOBの先輩方から出ていました。しかし私は田鍋キャプテンが「自分が大西に勝って昇格するのだ」との意気込みでオーダーを作ったのだからそれで良かったのだと思います。やはりリーグ戦は戦う現役選手のものだし、その中でも最上級生は4年間のテニス部生活の集大成として戦っているのだから、その考えを尊重すべきだと考えます。この時に「自分が最上級生になった時も、自分の考えたとおりテニス部を引っ張るぞ」と強く思ったことが思い出されます。

 二年生の時は庄野キャプテンのもとで昇格を目指しましたが、残念ながら二部3位で終わりました。この年は留学生のスティーブ・デニーさんが1年間テニス部に参加してくれて、リーグ戦にも出場しました。スティーブさんはアメリカ仕込みの豪快なサーブで相手の度肝を抜きますが、アメリカ仕込みのあきらめの早さも一級品で、リーグ戦に負けてもケロッとしていて、負けた後の応援でも「庄野さんはいつも寝ているみたいだ」と大笑いする始末。ペアを組んだ藤井先輩のご苦労が忍ばれました。

 三年生のリーグ戦はすべて単複ともに出場しましたが、残念ながら史上初の三部落ちとなってしまいました。最上級生は藤井キャプテンと阿部先輩の二人で、一方我々三年生は12名と多く、実質的には我々の責任で三部落ちしたようなものです。
この年の二部には前年にまさかの降格となった早稲田と、破竹の勢いで昇格を続けてきた東海大がおり、この二校は一頭地抜けていたため他を全勝して、どちらか一方に勝たなければ上の入替にはかかりません。その中で緒戦の専修大学戦で、ポイントゲッターであるはずのシングルスNO.5の私とNO.6の大岡君がまさかの連敗で4-5で落としてしまい、結局それが最後まで尾を引いての三部落ちでした。シングルスはその後入替戦を含め全勝しましたが、その後のすべてを負けても専修戦には勝っておくべきでした。まさに一戦の重み、痛恨の一敗でした。結局入替の日体大戦ではシングルスNO.1の藤井キャプテンまで4-4で回してしまい、当時オールジャパンでインカレ優勝の堀内さんに健闘むなしく敗れて三部落ちとなりました。

 最上級生ではキャプテンに指名されました。二部復帰が絶対条件の背水の陣でしたが、同期に助けられ、後輩たちも盛り上がってくれて、大変楽しい一年でした。練習ではマッチ練とフリー練を繰り返し試合で使える技術を磨くことと、勝負勘を養うことを重視しましたが、戦力的にはメンバーは全員関東学生以上であり大変充実していました。「リーグ戦はお祭りだ、盛り上がってやろうぜ」とやりましたが、結果的には3部全勝で2部復帰を果たしました。リーグ戦に選手としては出られないメンバーも、応援にボールボーイに大奮闘してくれて、完全にチーム力で他校を圧倒できたと思います。しかし前年しっかりしていればただの2部維持だったということですから、昇格といういい思いをさせていただいてラッキーでした。藤井さん・阿部さん、ごっつあんでした。

 OBの諸先輩方にはよく練習に試合に来ていただき、大変ご支援をいただきました。当時の理事長の内河先輩は亡くなられてしまいましたが、あの当時の話ができないと思うととても寂しいです。また2年ほど前に亡くなられた上野城太郎さんは、太陽のようなあこがれの先輩であり、本当に可愛がっていただきました。秋元先輩のお宅には、週に2、3日は泊まらせていただいて、ほとんど居候状態でした。

 我々のテニス部は体育会であり、サークルとは違います。全員が一丸となってリーグ戦に向かって突き進みます。先輩と後輩のつながりは強く濃いものであり、理不尽なことも多々ありますが、それも含めてテニス部の4年間は私の人生の背骨を作ってくれました。(ついでに嫁さんもテニス部で調達しました。)これから次の100年に向けて立教テニスがさらに魅力的になるよう、みんなで盛り上げていければと思います。

以上