立教ファイトー!

提供者: 昭和51年(1976)-佐藤信夫。 区分: 寄稿文
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昭和51年(1976)佐藤信夫

立大テニス部創部100周年おめでとうございます。心よりお祝い申し上げます。これまで支えてこられた現役、OBはじめ時代々の関係者の皆さまがご努力・ご支援を積み重ねてこられた結果とあらためて敬意を表させていただく次第でございます。私も長い歴史の1ページに参加できたことを誇らしく思い、とても光栄に思っております。そして寄稿の案内をいただき久しぶりに学生時代のアルバムを開きました。本当に懐かしく様々な想い出が蘇ってきました。

今年、私の年代は卒業40年を迎えました。想えば立教大学体育会庭球部の門をたたいたのは44年前、当時の大学スポーツは同好会人気が台頭し出し体育会人気が下降気味になってきた時期でした。私も中学・高校ではテニス中心の学生生活を続けてきたものの、さて大学で何をしたらよいのか。勉学?に励むか、テニスを続けるか、全て別の道に進むか、入学して最初の分岐点、右か左か真っ直ぐか?結構迷った記憶が残っています。結果的に「体育会のテニス部」に進んだわけですが、この選択がその後の就職をはじめ私の半生を決めた大決断となりました。私の代も高校卒業時には同期が10名以上いたのに、大学卒業時には今は亡き鈴木一広と私の2人だけとなってしまいました。同期のみんな、特にテニスレベルではレギュラークラスの大半と一緒に卒業できなかったことは今でも心に残っています。

大学で最も世話になったのは「第一学食と富士見グランド」でした。キャンパスに行っても教室には殆んど出向かず、まず第一学食で腹ごしらえして、そのあと富士見コートに向かったものです。それにしても富士見コートは遠かった!最近は寄ったことがないので周りの環境もだいぶ変わったと思いますが、当時は『地の果て』という言葉が一番似合うように感じたものです。乾いているときは土埃で視界もきかず、鼻の穴や耳の穴などは真っ黒になってしまいましたし、雨が降れば田んぼ状態でラグビー部やサッカー部の連中は全身泥だらけというより泥人形!でクラブハウスの前で水洗いしていたことを鮮明に覚えています。

当時の細かい記憶は徐々に薄れてきてはいますが、「立教ファイトー!」の精神は永遠です。時代の流れとともに体育会に求められるもの、また部活動自体も少しずつ変わってきてはいますが、根っこの部分は変わるものではありません。想い出せばまだまだ書きたいことは尽きませんが、これからも立大テニス部が創立150年、200年と末永く続くことを祈念し、また若くして逝った上野城太郎先輩、鈴木明先輩、八木沢先輩、鈴木一広ほかの方々、また途中でテニス部を去った仲間らとともに、陰ながら応援することを誓って回想を終えます。立教ファイトー!