テニス部への思い

提供者: 昭和23年(1948)-清隆彦。 区分: 寄稿文

 
 立教大学体育会テニス部の当時のOB会会長の岸本駿二さんから、「清さん、テニス部の部誌を作りたいと思うから協力して貰えませんか」と云はれ私は部誌と云う堅苦しいものは書けないが戦后のテニス部の思い出のようなものは思い出して書いても良いが、又経験のしていない人達の知らない世代の方達に当時の日本で起きた事を知らせるために一筆書いてもよいが、ではお願いしますと云うことで始めたのがこの記述である。

 とりとめも無く思い出しながら書いたのでまとまりが無くなったが、専門家でもない私が書いたので拙劣なものになったことはご勘弁願いたい。私の身の廻りで起きた事等、色々と取り混ぜて書いたが、若い皆様方にはとても想像もつかないことばかりが起きていたと思って頂きたい。しかしテニス部がテニスを中心にして何とかその型(かたち)を残していくべく頑張ってきたことに感謝したい。

 庭球部のことを書く前に最近の特に学生諸君や若い卒業生は、戦争中のこと、戦後のことをあまりご存知ないと思うので、少々ここに書き記すことにしたいと思う。あまりいい思い出ではないが、立教大学にもこんな時代があったと云うことを知っておられても無駄ではないと思いましたのであえて筆をとった次第です。

 私は昭和18年4月(1943年)立教大学予科1年に入学した。当時の学区制は小学校6年、中学校5年大学2年、学部3年で、今の小学6、中学3、高校3、大学4と異なっていた。(予科は丸帽、大学は角帽)当時の予科の校舎は、時の中学校と道路を隔てて建っていた理科専門学校(理学部)であった。戦時中のこともあり米国の空襲に備え迷彩をほどこした建物であった。校舎の庭は軍事訓練の銃剣道の訓練に明け暮れた後のテニス部のコートになった場所である。今から思えば想像に絶する程のことだが、当時は戦時中でもあり校舎の容貌は怪異としか云えない。

 我々は学生服(当時は私服は着ない)こそ着ているが足はゲートルを巻いてまるで兵隊の恰好である。立教はミッションスクールであるが為に敢えてファッションの配属将校(軍事訓練を教える為に軍から学校に派遣された軍人)が配され勤務していた。チャペルの内部の祭壇取り壊され軍の酒、正油、味噌、米の保存の倉庫に使われていた。テニスをするどころではない。

 時の庭球部長は経済学部長の河西太一郎先生であった。主将は吉仲秀明さんであった。時の首相は東篠英機で大東亜戦争の真っ只中の学生生活であった。戦争が激しくなり1943年10月21日東京、千葉、埼玉県下77校の○○名は今の神宮野球場に集合、学徒出陣壮行大会を大雨の降る中で、武装して行進、我々送る側の生徒6万5千人も参加して見送ったものである。昭和19年1944年十条の陸軍造幣首で鉄を溶かす鋳工作業、出来たかたまりを延ばす廷工作業をさせられた。朝の9時から午後の5時までの仕事で帰る時はくたくたに疲れたものである。1945年(昭和20年)ここでの作業で手を圧延機にはさまれて手先をなくした同級生もいた全く危険な作業であった。

 昭和20年、1945東京の大学の予科の2年生は北海道の農家に勤務動員された。戦争たけなわの頃である、農家と云っても北海道の牧畜は主に乳牛の飼育でその手伝いである。牧畜の種を5種類位まく、種は種類により芽が出て来る時期が別々で5種類が順番に出て来る。

 最初の種の芽が出て牛が食べつくす頃に次の品種の芽が生えて来ると云うように自然の現象を利用した合理的な方法は感心したものである。当時としては牛乳など都会には無いし、乳牛であるので雄牛が生まれると処分していた。その肉は食料

西田、我々にはその恩恵を受けて牛乳を飲み肉を食べ、栄養を補給することができた。農家の手伝いとは表面上の理由で軍事訓練を受けた若い学生が北海道に集められたのは北のソ連(今のロシア)が攻めてきた時は軍人に早変わりして戦うことになっていたのである。案の定ソ連は昭和20年日本が負けると分かった突如として参戦し北の日本席巻しようとした。

 これは歴史に残る事実である。しかしは英米仏の連合軍によって阻止され米の一国の占領に終わった。日本が分断占領されないで済んだのは幸であった。しかし北方四島や樺太の南部はソ連のものとなった。北海道にいた時に、戦争が激化し農家作業どころではなく召集令状が来て皆南の戦地にかり出され残ったのは2名だけとなった。1名は手の不自由な人で、1名ははからずも小生であった。

 お陰で私は戦争に行かずに済んだ。しかし当時の国民感情からなぜ私を軍に召集しないのかとの願いを役所に届け出たものである。しかし最後まで通知が来ないで終戦を迎えることになるが。昭和20年3月9日、10日の東京大空襲で池袋は一面の焼野原となった。池袋の駅から立教大学の時計の塔が見通せる程で言葉では云い尽くされない程の悲惨なものとなった。幸い立教はその中で火災を受けずに済んだが、アメリカのB29爆撃機によるものだが立教大学が焼残った理由にこんなエピソードがある。それは、日本に初めてアメリカンフットボールを導入し、しかも立教大学に初めてアメラグを入れ各大学に普及した米人ポールラッシュ氏の米軍に対する助言もあったように聞いている。もしこれが事実とすれば立教をあえて残すためレーダーを苦使した米空軍の選別可能な空襲には恐れ入ったものである。

 同じく昭和20年8月6日広島へ新型爆弾投下、同じ年8月9日長崎に投下され遂に8月15日終戦に至った。8月30日米国マッカーサーが厚木に到着、日本占領の第一歩が始まった。今でもマドロスパイフを口にして飛行機から降り立った将軍の姿が目に浮かぶ。我々は日比谷の第一生命のビルに入ったGHQ(ゼネラルヘッドクォーター)軍司令部から出てくるマッカーサーをよく見物しに行ったものである。そこで、知り合った米軍人と仲良くなり、大学に連れて来て芝生の上で英語の勉強にと詰め合ったのを思い出す。米人ならではのフランクの処が目に浮かぶ。終戦の前、私は北海道の動員先から帰京した。我が家が焼けたから帰京して呉れとの母の願い、もう学校のことはどうでもいいから母のために帰京しようと心に決め決行した。

 あとで教授から、思い切ったことをしたねと云はれたことを思い出す。退学にもならずに終ったことを幸いと思う。勿論大学は留居番の老教授だけで、若い先生は皆戦地へ出て学校はガランとしていて授業どころではない。戦争末期のことだから空襲も激しくなって毎日毎日が大変な事となる。南方の方は、日本軍が各地で敗れ次第に日本国内への戦いとなって来る東京はその真中で焼け野原になって行く。悲惨な情景に、やがて終戦を迎えることとなる。天皇の玉音放送は、目黒の自宅で父母と一緒に聞く。涙が出て来るが、やっと終ったとの安堵の念が先に立つ。父は北支で関東軍に食糧を収める会社にいたが、終戦の1週間前に偶然帰国して戦犯にならなくてよかった。話はがらりと変わり、庭球部の思い出に移っていく。

 倉光安峯さん(関西大学卒)が昭和21年チャペルの隣のテニスコートに来られ、名古屋に将来必ずデビスカップの日本の代表になれる人材があるので是非立教に入学できるよう勧誘してほしい旨すすめられ、庭球部に入られたのが昭和33年入学(1958年)昭和37年卒業の小西さんである。予言通りデ杯の選手となり、活躍され立教の名を大いに高めた方である。そんなご縁から、倉光純さん(昭和38年卒)、倉光哲さん(昭和42年卒)が入られ庭球部のために尽くされた。お父さんの安峯さんは関西の名選手でデ杯の選手でもあり、一例として手許にある記録によると、全日本ベテランのシングルスで昭和32年から、33、34、35、37、38、39、42、43、44、45、46年と、毎年のように優勝された方で、セントポールクラブの名誉会員として、名を残させて頂いている。安峯さんが創設されたフミヤスポーツを哲さんが継がれ、テニス界に貢献されておられる。よく池袋の店に行きテニス談や昔のことを語ったものである。

 まことに不思議なご縁でテニス部にとって倉光安峯氏は、大恩人であると思っています。そのお人柄と云い何と云っても左打ちの選手でそのフォームの美しさは人をほれぼれとさせる程のものでした。よく田園調布のテニスコートで姿をお見かけしたり、試合の審判をつとめさせて頂いたものである。小西一三さん及び倉光哲さんの選手記録の概要を記してみましたいづれもお二人の記録はすばらしいと云はざるを得ません。

 昭和22年私は英語の勉強にもなるしお金にもなると考えアメリカのCPC(民間財産管理局)と云う機関にアルバイトに行ったここは日本人が満州や中國、朝鮮に残して来た財産をどの位あるかを試算して之を換算し賠償のために計算していた米國の機関である。結果的には、賠償はなかったが、ここで出来上った資料を基にしてパンチカードを作る。そのカードを丸の内の三号館と云ふ赤レンガ造りの事務所(その当時は三菱のビルで赤レンガ造りのビルが多く残っていた)に持っていきIBMの仕訳機械にかけ地区別、資産別に分け一冊の資料を高速で作り印刷までして完成する。之がアット云う内に出来上る。その速さと精密さ設備を見てとてもこんなアメリカと戦争をしても勝てる相手ではなかったと思い知らされた。その時の月給が2000円であったことを覚えているが、在学中の学食のカレーライスの値段が30銭で貴重な経験をさせて貰ったと思っている。また、運動部の選手が練習をして帰りに必ず立ち寄る喫茶店が池袋の二又交番の前にあり「岸野」と云う店で夏はカキ氷、冬はおしるこで、戦後の甘いもののない時つかれた体をいやすのに助かった。

 昭和30年卒の三町正治さんは、永く日本庭球協会の常任理事を勤められ立教の庭球部の対外的な地位を高められた貢献があり夫人の令子女史と共に、部の維持に勉められ、正治氏は昭和61年亡くなられたが、夫人は名誉会員として在席していただいている。

 昭和53年卒の鷲田典之さんはテニスに大変理解のある朝日生命に勤務され、テニス界に貢献され、在学中も並々ならぬ成績を揚げられ長年庭球部の監督等に尽くされ力していいただいている。感謝している。

 選后の思い出で一番苦労したのは、物がないということ。食糧確保の意味で、地方農家、関東では主に千葉県、埼玉県にさつまいも、米の買い出しに行った。汽車は超満員列車の屋根、機関車の前に行ったり来たり危険をおかしてまで喰べるものに全力を注いだ。そうでもしないと栄養失調となり死んでいった。しかし、之にも経済警察が目を光らし、買出人を取り調べ、せっかく手に入れる物を取り挙げられる始末である。一ヶ月500円の生活が定められたのも、この時代、木炭をくぶらしその煙でバスを走らす木炭バス、車の後ろに釜があって熱いことおびただしい。それで坂道を登るのに力無く時間のかゝることであった。マッチも無く之に代り木片に硫黄をぬって火種から日を取る方法をとった。砂糖も少くサッカリン、ズルチンを使った。勿論闇米の摘発も行はれ、さんざんな世の中であった。法を犯す訳はいかないと云って死んで行った学者もこの時代の出来事である。

 次に立教大学庭球部のテニスコートの移り変わりとそれに伴った色々の思い出を綴ってみる。昭和18年頃は現在のタッカーホールの建っている処でチャペルの西側に2面あった。

 戦時中なのでボールの使用のスポーツは禁止されていて、昼休みのベルが鳴ると部員は先を争ってコートに行き、石灰で線引きをしたものである。しかしテニスは出来ない。英語、フランス語、ドイツ語、中国語の授業が有るのが矛盾していた。終戦後昭和21年本格的にテニスをしたが、ボール、ラケット、運動靴等、道具が揃はないので大変苦労した。

 庭球部も予算がない時代なので、戦後急激にはやったダンスを利用して、各大学がダンスパーティーを開催し、その売上金で部費を賄ったもので、慶應、早稲田、明治、法政等のテニス部に我々が出かけていってパーティー券を買って貰ったものでお互い様なので、よく買って呉れた。こうして部員全員の力で部費の補いをしたものである。ダンス開催の場所は目黒の雅叙園等が舞台となった。さすがに慶應、立教の券は女性にもてもてよく売れた。当時部員は20人位だったと思う。

その当時の部費の運営は学校からの予算の確保であり、一番予算を撮っていたのは野球部で予算採はマネージャーの右腕にかかっていた之が現在と違っている点と思う。それに部員の都合費と寄付金の対外成績も良くないと学校は予算を多く呉れないのは云うまでもない。

 この頃は何と云っても歴史の長い田園調布のコートが有名で、殆どのテニスの試合がここで行はれた。山岸二郎氏、倉光安峯氏、鴉原謙造氏、鶴田五郎氏、隅丸次郎氏等、名選手がここで育った。

 タッカーホールの建設のためコートが立教小学校の建設予定地に昭和21年9月に移った。5面出来上ったが、その当時としては、5面も使用している大学は少く大変なものであった。

 物資の少い頃であり、コートを囲むバックネットも手に入らず張ることが出来なかったので、テニスをしていない部員に全員ネット替りに立って貰ったもので、草が生えているので球が見つからずに苦労した。部室に使はせて貰った処は、コート際の堀立小屋で大学の職員とされていった斎藤さんのお宅で大変ご迷惑をおかけしたことを誠に申し訳なく思っている。

思 い出としては、立教先輩の俳優の池部良さんがこのコートに来られたのは昭和23年3月の入試が終りすごく寒い日でレインコートに戦闘帽の姿で来られ、長野の小諸で破戎の丑松の役を撮影していたが、中止となったのでその日暇に立ち寄られたそうである。倉光安峯さん、鴉原謙造さん、中野さんがよく指導を兼ねてテニスに来られたことを覚えていて大変勉強になった。朝の8時から夜の8時まで一日中テニス漬けになったこともあったが、それ程スポーツに飢えていた。従って、教室での授業を受ける時間がない、勉強は試験の前一週間位から始め、ノートを借りて頑張ったものである。それでも部員の成績は案外良かった。集中力の為であろう。

当時は、一部が早稲田、慶應、法政、立教の4校だったと思う。

 小学校の建設工事が始まるので、昭和23年10月に理科専門学校(理学部)の校庭にコート5面を造った。ここは戦時中試練を受けた思い出のある処であった。庭球部の財政困難は続き、ボール代ネット代等フミヤスポーツさんへの支払いが遅れ大変ご迷惑をおかけしたのを記憶している。申し訳ないことをしたと思っている。当時の部室は、工学部の地下一階の管理室とコートに小屋を建てて使った。後にこの小屋は、上板橋の都のコートに移る時取り払って移築した。この頃の理事長は小宮山知弥先輩で、立教の戦後の庭球部を支えてくださった方でうるさいが実に面倒見のよい方であった。

 今でも在学中に失敗したと思うことがある。当時庭球部の部長であった河西先生は経済学の他ドイツ語の授業も持っておられた。私はフランス語を専攻していたにもかかわらず誤って先生のドイツ語の教室に入ってしいまった。先生もへんな顔をしておられ多分ご存じだったと思うが一時間がまんして過したことで赤面の至りである。

 河西先生との想い出の中の一つに、先生の試験の問題に経済学の原理の出題があったが、経済学全集の中の東京大学教授、河西太一郎氏の経済学の原理を殆どの丸写しの状態で、論文を書き合格点を頂いた。全く良き時代である。

 昭和33年工学部庭のコートから東京都上板橋のコートに移転した都の綜合グランドを借り受けたものである池袋から東上線で行った。しかし赤土のひどいコートで特に冬は使えない位で、國鉄(現JR)のコートを使はせて貰ってお世話になった。庭球部のコートを前から全面的に面倒見て頂いていたコート造りの名人名倉さんに上板橋のコートを改修して頂いて良いコートになった。この頃今は故人となられた昭和23年の松本宣二君の会社の社長の植村さんの原町紡績には経済的にも大変お世話になった。

昭和44年現在の富士見のコートに移った。

 私共がお世話出来たのは上板橋のコート位迄で、私の一期上であるが、卒業が昭和23年の長年庭球部のマネージャーを務められた石井三代治さんは名マネージャーと云はれ庭球部の戦前戦後につくされその補佐を私がやり学連のマネージャーには古谷雄二君が当り、キャプテンは田中富引君であった。

 我々戦前戦後の混乱期に在学し物資面、経済面で大変苦労したことを覚えている。やがて平和になり落着きを取り戻すと立教祭では先輩の灰田勝彦さんディックミネさんが時計台をくぐった藤棚の下で歌を歌って戴いた。それぞれ灰田さんの鈴県道、ディックミネさんのダイナ等が歌われ大いに盛り上がりを見せた。これで立教にも春が来たなと喜んだものである。今の平和な日本で育ちテニスに打ち込み勉強出来る若い方達に、少しでも古い世代のことを知って戴き少しでもお役に立つことが出来たらと思い書いて見た。尚この記述を書くに当って多くの方々から助言や資料の提供を受けたことに感謝しつつ筆を置く。立教大学テニス部の大いなる発展を望んで。

平成17年6月18日 テニス部のために