雑感―あの頃

提供者: 昭和49年(1974)-武藤憲二。 区分: 寄稿文

 
 都立校ではありましたが、高校時代はデニスに明け暮れた私は、一浪しての入学、また体育会でやっていく自信もなかったことからテニスは同好会にその場を求めました。 それでも競技としてのテニスも忘れられず、新たに同好会を立ち上げ、トーナメント等には積極的に参加し勝敗を競っていました。
 そんな中転機となったのは二年次の中頃にあった体育会の人たちも参加していたトーナメントでした。 すでに引退気味ではありましたがインカレ資格の選手にシングルスで勝利し、本学テニス部のエースであった故八木沢恭司君(後にテニス部の同期となるのですが)に挑戦するという機会を得ました。 1セット目は何とか少し粘りましたが、2セット目は完敗でした。 実力の違いを思い知らされた試合でしたが、体育会のメンバーとの距離が少し縮まったような気がしました。 決して自信が出てきたわけではありませんでしたが、挑戦してみたいという思いが強くなっていました。 部の方でも受け入れてくれるということもあり、遅ればせながら二年次の後半になりテニス部に入部しました。
 入部して強く感じたことがありました。
体育会=「理不尽なまでの上下関係」、「有無を言わさぬ根性主義」などと勝手に思い込んでいましたが、これが全くの思い違いでした。部員数が少ないといったこともあったかもしれませんが、年次の上下やその時点の実力などを超えてフランクに意見を言い合い、戦略や戦術をみんなで考え、リーダーが決定して行くといった、言ってみれば極めて「民主的」な組織であったように感じました。 もちろん「緩い」という訳ではありませんでしたが・・。 何故こういうことが成り立っていたか、ということはその時は深くは考えていませんでしたが、後から考えれば、それは目的がはっきりしていたからだと思っています。 「リーグ戦で勝つ」という目的を部員全員がしっかりと共有していたから出来たのだと思います。 もちろんテニスは個人競技ではありますが、まず「チームとして勝つ」ことが何よりも優先されていたように感じました。 目的を達成するためには手段は問わない、といったことだったのでしょうか。 こうした物事の進め方は、社会に出てからの私の組織運営にとっても大いに役に立っています。 当時の部員も個性的なタレントが揃っていましたので、これを取り纏めて行くのも本当に難しかったと思います。 あらためて当時のリーダーたちの見事なリーダーシップに感心する次第です。
 個人的にはさしたる貢献や活躍も出来ませんでしたが、三年次には一部復帰するなどとても良い時期に一緒させていただいたことを深く感謝しています。 「あの時、入部させていただき本当に良かった」と、心からそう思っています。