終戦直後のテニス思い出雑記<創部100周年によせて>

橋本 幸雄
(S25/12卒)

* 立教中学校昭和16年4月入学と同時に庭球部に入部して硬式テニスを始めた。中学のテニスコートは現在の小学校の所に1面(大学のコート4面から南
  側少し離れたところ)あった。戦時中は英語禁止でテニスのポイント・コールもフィフティーン、サーティーン・・・でなく、15、30と言わされたが、戦時中で確
  かS18年にはテニスや野球などのスポーツは出来なくなったと記憶する。

* 伊与田さん(S11年卒伊与田さんの弟、早稲田大学で庭球部に在籍された様子はない)が近所に住んでおられ、日曜日毎に指導を受けテニスの基本を
  教わったことを思い出す。

* S20年4月立教大学予科に入学、大学のテニスコートはチャペルの隣(現在タッカーホールの場所)に4面あり、道路側2面を予科生が使用、奥の2面を学
  部生が使用することになっていたが、戦争も末期でテニスなどやれる状況ではなかった(道路側コートの後ろにボードがあった)

  • 戦後直ぐにタッカーホール建設計画が持ち上がって、テニスコートはS21年春に現在の立教小学校のところに移転。
  • 更にその場所に立教小学校校舎を建設することで、S23年春理科専裏のグランドに移転、コート開きの式典がS23・5.3に行われた。
  • コートはローラーをかけ、ラインは石灰を水で溶いて専用の刷毛でひいた。冬はコート(2面ほど)に霜除けの筵を掛け、練習のときは筵を左右・後ろに除けて行った。
  • ラケットはフタバヤ、スラレンジャーなどが主流、ガットはシープだが、代用品で牛腸ガットもあった。
  • ボールは富士ボールが主体で昭和ボールもあったが、ボールは不足状態でフェルト部分が擦れて殆ど無くなった状態のボールを使用したこともあった。
  • リーグ戦は昭和22年まで、法・慶・早・東・立・商(商は現在の一橋)の6校制であったが、昭和23年から4校制に変更され、5・6位の立・商が2部になった。
  • 確か対抗戦だったと思うが、明大のNO1津村に7-5 6-4で勝ったことを記憶している。
  • S23年秋~24年春にかけて関東大学選抜の冬季練習会がパレスコート(皇居内)で行われ、立教からは飯塚(S26年卒)と二人が参加、毎日殆どシングルスの試合形式の練習だったが、当時のトッププレーヤー隈丸さん(西鉄)とも試合をさせてもらった、6-4で敗れたが良い練習が出来た。
  • このとき皇太子(現天皇陛下)がお見えになり、隈丸さんとボレーの練習をされ、その際ボールボーイをしたが、皇太子の頭を越して返球したとき、斉藤侍従から当たったら不敬罪、転がして返球するようにと注意された。
  • S25年夏鎌倉テニストーナメントに出場、2回戦で斉藤(慶)に7-5 6-0で勝利、3回戦誰だったか忘れたが敗退。その夜立教大学のオークス教授(アメフト部を大学日本一に導いた名コーチでもあった)の愛車に同乗して軽井沢に行き、軽井沢国際テニストーナメントに出場、先生と組んだダブルスは1回戦3-6 1-6で敗れたが、シングルスは勝ちあがり、準決勝で鵜原謙造に当たって3-6 1-6で敗れた。鵜原はこの大会決勝で宮城に勝ち優勝している。オークス教授は子供さんが生まれると言うことで試合が終わると直ぐに東京に戻って行かれた。
  • 部活動費捻出のためダンスパーティーを開催したが、S21年ごろ学校食堂で行ったときは、床に凸凹が多く滑りが悪くて不評であった。
  • S25年7月、同志社との定期戦は京都・鞍馬口の同大コートで行われ、5-4で勝利し、その夜宿舎の京都市内高瀬川沿いの旅館で先輩方に祝勝会を開いて頂いたが、朝帰りが一人いた。
  • 戦後の池袋西口一帯は戦災で焼け野原になっていて、駅前の豊島師範焼け跡そばから二又交番そばまで闇市が続いていたが、そこで焼酎を飲んだことを思い出す。
  • 二又交番の斜め向いに岸野と言う喫茶店があり、更に大学寄りに夏目書店があった。
  • S43年ごろ東伏見テニスクラブに入会、S57年1月のベテラン大会で優勝。S61年壮年ダブルスのコンソレーションで優勝した。
  • S56~57年ごろOBの東西対抗戦が名古屋で行われ、藤澤・小宮山・桂・大川・田中(能)飯塚・内河・伊藤部長などと遠征し関西OBの平野(謙)・山内等と親善試合を行った。

* 後見人として佐藤周馬を選んだ覚えがあるが?

* エピソード

その1、北原先輩のお宅に伺うと「家内に頭が上らないんだ」とよく聞かされた。北原夫人(旧姓滝口)は全日本などでの優勝経験もあり、年上だった由。

その2、S22年ごろ石川源一郎さんのお宅に伺った際、テニス界の大物中野文照さん・鵜原謙造さんや北原静彦さんが、石川さんがやって居られた豊岡物
    産に入社されたことなど聞かされ、お宅で食事をご馳走になった。

その3、S20年8月14日勤労動員で東武東上線の現在の和光市にあった被服廠に行ったが、翌15日に終戦となり勤労動員は一日だけで終わった。

その4、S28年ごろ巣鴨白山の上村さんのテニスコートに日曜日毎にS25/12卒の原田・土屋、S26/3卒の迫・平野・平山など5~6人が集まってよくプレーした。

以上