立教学院での十年間

提供者: 昭和34年(1959)-寺井政勝。 区分: 寄稿文

 私は昭和十一年七月文京区小石川に生まれてすぐに豊島区東長崎に転居し育ちました。地元の小学校を卒業後、自宅からそう遠くない立教学院(当時は池袋中学校、高等学校、大学のみ存在)を修学先と決め小学校からの内申書の内容が良かったせいか面接試験の結果、無事入学することが果たせました。

 中学生となり課外活動として運動部に入部することとし野球部、テニス部を選択し、まず初めに野球部の部室を訪問した所、長嶋ブームの六年前にもかかわらず、入部希望者が長蛇の列をなしており、この中に入ってレギラーを獲得することは不可能と判断し隣接のテニス部に入部することに決定しました。

 今振り返って想い起こせば戦後まもなくの昭和二十年からの十年間硬式テニスを行うことが出来たのは大変幸せなことで、関東地区では、学習院、早稲田、慶応、成蹊、立教と云うわずかな学校数であったと記憶しております。中学生となっての部活動の内容は、コート整備、ボールパーソン等が主作業で両手のひらは、ラケットを握っての豆ではなくクレーコートの為の石製のローラー引きにより出来たことを思い出します。それでも上級生の熱心なご指導のお蔭げで、高校生になってからは、学校対抗戦、特に同志社大学附属高等学校との定期戦・大阪中モズでの全国高等学校選手権大会へ出場できる迄󠄀のレベル・アップをはかることが出来ました。大学生になってからは残念乍らレギュラーからはずれたことにより、三級下の女子部員、藤田沙絵子さんが発起人となって女子部が創設され、同級生の柏木司朗君と二人でコーチとして、技術指導にあたりました。

 私のテニス歴は前述の通り、立教学院在学中の十年間の後、石油製品販売会社に入社しサラリーマン生活を送るなかで、テニスコートを確保しプレーすることが非常に困難な状況を迎えました。サラリーマン生活五年経過した昭和三十九年、現在居住地の福島県郡山市に転勤となり、テニス仲間からも離れた為、約十年間程ゴルフ中心となりラケットを握ることが少なくなりました。昭和五十年に県内で初めて(東北地区で二番目)の郡山テニスのクラブが創設され名誉会員として受入れられたので学生時代を思い出し会社終了後、ナイターでのレッスンにコーチとして参加しました。定年退職後は観光旅行を兼ねて通算八年間タイランド国内各地での開催される、I・T・Fシニア・オープン大会(グレード二)に出場したりして長いテニス人生を楽しんで居ります。