立教テニス部創部100周年にあたり

提供者: 昭和34年(1959)-瓦林聖児。 区分: 寄稿文

 
 私が大学に在学、テニス部に在部したのは昭和30年4月―34年3月である。

 思い出は尽きないが、まず当時の戦績から述べると、当部は私が1年の時に2部から1部に昇格し2年目に又2部に降格、3年―4年と入れ替え戦に臨んだが毎年1ポイント差で惜敗、昇格を果たせず卒業時には2部のままであった。在学中4年間すべて入れ替え戦を行ったことになる。

 当時は1部―4部はそれぞれ4校であったためわが校は常に関東の4位か5位ということになる。対抗戦やビッグトーナメントは全て5セットマッチで、対抗戦の場合は1日目ダブルス3試合、2日目シングルス6試合。タイブレークなどなく特に対抗戦となると試合時間は延々と長くなる。私は4年の時、明治大学との入れ替え戦で、私のシングルに最後のポイントがかかり一日では決まらず、翌日の朝から昼頃まで戦って敗れ、結局2部のまま卒業した。幸いその時の下級生が非常に強く翌年には1部昇格を果たしてくれた。

 私は体育会推薦で入学したため、入試の前から練習に駆り出された。昭和30年の2月、初めて上京して下宿で荷を解く間もなく、早速、テニス部が冬季に借りていた高田馬場のコートに呼び出された。その時の思い出は練習よりも、霜よけのために掛けるコートの筵(むしろ)の上げ下ろし。福岡育ちの私には霜よけ筵などは経験したことがない。当時の東京の人たちにとっては何の違和感もなかったであろうが。かくて母校、修猷館高校の卒業式に出た記憶がないまま大学生活に入った。

 冬が終わり高田馬場から立教校内のコートに戻った(当時は理学部校舎の裏側にコートがあった)。勿論体育会ではあったが我々は午前中の授業には必ず出席するようにしていた。
校内に素晴らしいクレーコート5面あるというのは体育会部員にとって誠に幸せなことであった。部員数は大体40-50人でコート5面と板うちボードがあったので十分であったと思う。
しかしその恵まれた環境も残念ながら学校の方針でその場所に校舎を建てることになり我々は昭和33年の冬から上板橋のコートに移ることになった。その時私は主将に任命され、初仕事がコートの移転であった。勿論学校から遠くなり、且つコートは風当たりが強い場所にあり当初は戸惑いがあった。上板橋に移ってからは常に風の中で練習したという記憶しかない。

 尚、昭和30年―36年頃は立教大学の歴史上体育会スポーツの全盛時代であったと思う。私の記憶では野球、バスケット、アイスホッケー、スケート、アメリカンフットボール、軟式テニス、等、など 全日本クラスがそろっていた。タッカーホールで年一度催される体育会総会で、各部のその年の優勝カップ、優勝旗などがひな壇に並べられるのだが、それは壮観で硬式テニスは、肩身の狭い思いがしたものである。

 コートの移転と同時に主将としての仕事は高校生スカウトがあり、マネージャーの金田君と二人で、主として九州、中国地方を回った。しかし実績のない高校生の将来性を見抜くのがいかに難しいことか、後になり他校に行った学生を見るにつけ反省しきりであった。学生スカウトに際しては、やはり1部校と2部校の説得力の違いを実感した。

 ともあれ、練習、練習、試合、練習に明け暮れた日々であった。当時の練習は今から思えば非科学的で、ただ走る、ボールを打つ、冬は厳寒の中、大体ポロシャツと、セーター、その上に薄手のユニフォームのジャンパー、ズボンはペラペラの長ズボン一枚という装備。夏は夏で暑い中ボール拾い、対抗戦ではチェンジコートの時にその前のゲームを取らないとベンチの上級生が水を飲ませてくれない。

 又、練習時間は午後から日没までと長いが、1-2年はコート整備をする。ただボールを拾う。審判をする。などで時間が経過し、実際に球を打つのは日没前の短い時間であった。私は幸い1年生から準レギュラーだったからボールを打つことはできたが、球拾いばかりの同級生はたくさんいて、申し訳なかったと思う。

 入学時、同級生は20人弱で数の多い方の学年であったが、一人辞め、二人辞めでだんだんと減ってゆき、卒業時には11人となった。卒業は34年3月であるが、33年度卒となるので33会(さんざん会)として時々交流を続けている。残念ながら最近二人逝ってしまったが。

紙面が限られているためここで思い出を終わりにしたい。 (平成28年2月)