立教とテニスの思い出

提供者: 昭和47年(1972)-加藤雄一。 区分: 寄稿文

 
 旧軽井沢のテニスコートで現天皇陛下と皇后陛下がテニスを通して愛を育まれたことは当時有名な話だった。そういった雰囲気に憧れを感じ、立教中学に入学して間もなく硬式庭球部に入部した。当時の中学校では軟式テニスが通常で、確か関東地域では6校くらいしか硬式庭球部がなかったと記憶している。

 ランニングやうさぎ跳びで内出血してしまったり、必ずしも頑丈な体ではなかった。今では、笑い話だが、先輩からドローをもってこいと言われ、土を持って行ってしかられたりもした。急性腎臓炎を患ってしまったくらい、自分の体力以上に必死に練習したことから、関東でもシード選手になることができた。

 高校に上がると高校1年まで出場できる全国東西対抗ジュニア選手権に東の代表として参加した。その時ペアーを組んだのは後にデビスカップの日本代表になった同期の平井健だった。高校時代はもちろんインターハイを目指し練習した。うさぎ跳びはもちろんハードな練習が続く。たるんでいると先輩から正座を1時間くらいさせられ自分の足ががしびれて感覚を失った。それでも自ら進んで練習に明け暮れ、先輩の吉井さんはじめ厳しくも温かい指導を受けていた。

 高校2年の時にはインターハイには出られなかったが、翌年を目指し、インターハイの会場に連れて行っていただき、会場の雰囲気を体感したことは大きな経験だった。

 翌年、高校3年ではついにキャプテンとして立教高校のテニス部をまとめる役にもついた。毎日一人で東上線の始発に乗って志木のグランドに立ち練習をした。冬の朝は暗い。軍手をして明るくなるまでグランドをもくもくと走った。明るくなると、相手がいない為壁ぶつけでストロークやスマッシュの練習をした。コートにネットを張って一人でサービスの練習もした。そうこうしている内に沢山のチームメイトが合流してきて活気のあるチームとなった。

 昼食は休憩時間に摂り、昼休みは練習。放課後は暗くなるまで練習。そして帰宅した後も自宅から飛び出てランニングをした。それでも慶応志木校のチームの奇策にインターハイの予選で団体としては敗れてしまい、団体戦に出場することは出来ず、唇を噛んだ。しかし、個人戦としてはダブルスは第3シードを守り3位、シングルスではベスト16の成績を残すことができたのは一生の思い出となった。

 しかし、練習ばかりして授業中には良く居眠りをすることが多かったため勉強の成績は最悪。先生から母親と共に呼び出しを受けて、このままでは大学に行けない。どうするつもりなのかと問われた。もちろん、大学に進学するつもりだし、経済経営を志望していると答えた。それから猛勉強が始まった。たまたまテニスで国体選手に選ばれたが辞退をして猛勉強を続けた。おかげで、経済経営への進学としてはトップから6番目の成績で、運動部の活動優秀、成績優秀として学友会賞を受賞することができ、晴れて立教大学経済学部経営学科へ進学することが決まった。

 ここからまた、本格的なテニスの生活が始まった。入学前からリーグ戦に向けての合宿に参加して先輩方の指導を受けた。授業にも出ないで練習する日も少なくなかった。このころは立教大学テニス部は1部リーグの名門。有名選手が沢山いた。コーチとしてデビスカップ選手の小西さんや倉光さんのお父様にも指導を受けた。

 高校時代にお世話になった先輩の吉井さんが早稲田大学に転校したことから、後にデビスカップ選手になり、そしてデビスカップの監督にも就任した坂井利郎さん率いる早稲田大学との合同練習をしたり、神和住純さんや平井健のいる法政大学との合同練習。同志社大学や成蹊大学との定期戦など他校の選手との交流も盛んに行われた。

 足を痛めてしまった結果、大学時代は期待されながらも成績としては不発に終わってしまった。関東学生の選手止まりでとても悔しい想いをしたが、このプロセスを通して、人生にとって大切な不屈の精神を鍛えることとなった。もしかしたら、順風満帆だったよりも良かったかも知れない。

 また、大学時代は応援が悪いとか、態度が悪いとか、いろいろな理由で坊主に4回ほどさせられたり、沢山のパートナーとダブルスを組ませていただいた。今、思うと苦しかったこと、、悔しかったこと、達成したこと、楽しかったこと、すべたが良い想い出になっている。

 最後に、立教大学テニス部の今後の発展と部員たちの活躍を祈念する。
 立教テニス部最高!立教テニス部ありがとう!