私と立大テニス部

提供者: 昭和54年(1979)-渡辺薫。 区分: 寄稿文
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昭和54年(1979)渡辺薫

私が富士見市にあるテニスコートを初めて訪れたのは昭和五十年四月の事でした。ちょうどリーグ戦の最中で、学生服を着たボールボーイがボールを奪い合うシーンや部旗を立て大声で応援する先輩達の姿を見て、とんでもない所へ来たという印象しかありませんでした。テニスは未経験でしたが何となく入部を決め、その後会った立教高校出身の同期とは第一印象で性格が合わないと思いましたが、それが今では四十年以上の付合いとなりました。特に当時東長崎にあった秋元君の自宅と湯島にある原田君の自宅には、何度も泊まりに行きましたから人生とは不思議なものです。

私は元々球技のセンスがなく精神力も弱い方なので、部内の練習試合も含めテニスの試合で初勝利を挙げたのは二年の夏の関東学生予選でした。会場は当時京王線八幡山にあった明治大学のテニスコート。当時明治のテニス部はテニスコートの前に合宿所があり、私は内心蛸部屋と思っていました。立教のテニス部で良かったとつくづく思ったものです。

一年の九月には同志社大学との定期戦で初めて京都を訪れました。その時乗車したタクシーの運転手さんから「お客さん前川清に似てますね。」と突然言われてびっくりした経験があります。顔写真を添付してますので御確認下さい。

日々の生活では当時テニス部は雨が降ると練習が休みになりました。特に日曜日に雨が降るとコートのある富士見市から池袋へ移動して、当時大学に隣接していた雀荘大華に有志で集合しました。大華は当時他の体育会クラブのオアシスにもなっており、午前十一時から午後十一時過ぎまで十二時間以上そこに滞在し、昼食と夕食はそこで出前を取るという事も再三ありました。七年ぐらい前のテニス部ゴルフコンペの懇親会で、浅見さんが「今の現役部員は練習が終ると個人個人で帰ってしまう」と言われた時大変驚き、自分たちの時代とは隔世の感があると思いました。

私は宮城県塩釜市に住んでいますが、五年前の東日本大震災の時は同期から多くの支援物資を送ってもらいました。小西さんからは名古屋から励ましの電話と支援物資を送って頂き、浅見さんには震災から三週間後に車で直接支援物資を届けて頂きました。私の同期は全員で十人なのですが、震災の翌年に隣町の松島町で一泊二日の同期会を企画してもらいました。これらの一連の出来事は、私を立教大学テニス部で良かったという思いを再認識させてくれました。

最後に現役部員に一言。それは両親への感謝の気持を常に忘れない事です。私は大学入学後全く勉強をしなくなり、卒業に五年かかりました。それでも両親は充分な仕送りを続けてくれました。当時両親への感謝を忘れた私は、精神的成長があまりありませんでした。両親への感謝のない人間は、他人への感謝の気持も持てないからです。現役部員の皆さんには常日頃、この気持を心の片隅に置いて日々頑張ってもらいたいと思います。