昇格を通して

提供者: 平成19年(2007)-五味晃一。 区分: 寄稿文

  
 この度は創部100周年、誠におめでとうございます。心よりおお慶び申し上げますとともに、このような伝統ある部にて青春を過ごせたことを誇りに思います。
 
 さて、私は現役時代の一番の思い出「昇格」を通して感じたことを、当時を振り返りながら寄稿させていただきます。
 
 私は平成15年に入学し、テニス部に入部しました。この年、大学として自由選抜入試が始まり、浦和学院(埼玉)から高橋、渋谷幕張(千葉)から鏑木、高崎(群馬)から都筑の3人、そして同じ内部進学で高校時代ペアを組んで埼玉県大会を優勝した神山と総勢4人の、各県のトップレベルの選手が同時に、入部しました。当時立教は4部に在籍しており、私自身このメンバーなら1年に1部ずつ上がり、卒業までに王座だと勝手な青写真を描いていました。

 夏が終わり、初めてのリーグ戦を迎えました。メンバーは主将の橘さん、そして私達1年生5人でした。リーグ戦では入部した時の勢いそのまま威勢よくプレーし他大を圧倒、全勝で3部との入替戦を迎えました。相手は順天堂大学。今思うと、私達(橘さんを除いて)は次も今までと同じような感じだろう、来年は3部だと目の前の試合よりも、もっと先のことを考えていたように思います。試合は、順天堂の降格したくないという思いが泥臭くも粘り強いプレーとなりポイントを重ね、逆に立教はこんなはずはないと想定外の接戦に焦りが生まれ、徐々にそれがプレーにも変化をもたらします。4‐4で回ってきた私のシングルスも相手の術中にはまっていることもわからず、実力を過信し、早く勝負を終わらせたいがためのリスキーなショットを打つことが増え、ミスを重ねていきます。結果は4‐5の敗戦。

 今思うとなるべくしてなってしまった結果ですが、当時はまだこの現実を受け入れることができませんでした。1年目のリーグ戦が終わり悔しい気持ちもありましたが、あろうことか王座に行けなくなっただけで、3年間あれば1部には行けると、また安易な青写真を描いてしまったのです。更には翌年1年生で水戸第一(茨城)から茨城1位の佐藤が入部したことが油断に拍車をかけました。来年は大丈夫だと。そして2回目のリーグ戦。結果は4部3位。入替戦すら掛かれず、虚しさだけが残る結果となりました。

 そこで初めて、このままではマズい、俺たちは何のためにテニス部に入ったのか、OBの方々にこれだけ期待してもらっているのに本当に情けない、と今までの甘さを猛省し、チームとしても個人としても本気で「昇格」に対して向き合いました。キャンパス内で部員と会えば、「昇格」と言って握手をし、それまで疎かにしていた練習後のトレーニングを限界までに追い込みました。OB会の支援を受けレギュラーはJOP大会(オープン大会)にも積極的に参戦し試合勘を鍛えました。部員全員が1日も「昇格」が頭から離れることがない1年を過ごし、チーム一人ひとりが困難を受け入れ、辛いことがあっても逃げずに向き合うということを覚えました。

 迎えた3回目のリーグ戦。苦しいことは当たり前、苦しまなければ勝てない、どんなに勝っても昇格するまでは何も得ていない、そういう思いでした。リーグ戦では気持ちを緩めることなく全勝し、入替戦へ駒を進めました。入替戦の相手は因縁の順天堂大学でした。雨で会場が変更となり白子に移動となりましたが、今回は誰一人として心に隙はありません。D3がファイナルに入るも、そのダブルスを取ると3‐0と一気に流れに乗り、シングルスもそのまま2本取り5‐0で打ち切り。昇格が決まった瞬間、涙が溢れました。向き合ったから苦しかった、嬉しかった、壁を越えられた、絆が深まった、今までに経験したことのない喜びでした。そして、ただ単に強い選手が揃っているだけではなく、その上で部員全員の心と身体を鍛えて初めて昇格できるということを知りました。簡単なことではないですが、1年間チームとして正しい努力を積み重ねることしか昇格への有効な手段はありません。

 できることなら、現役には4年間の中で「昇格」を味わって欲しい、本当の意味の感動を体験して欲しいと思っています。そのために、色々なことをうまくやることも大切ですが、後の人生を考えた時にたった1年でもいいので他のことを犠牲にしてテニスに、そして昇格に全てを捧げる時間を過ごすのもいいのではないかと思います。
 
 これからも応援しています、頑張れ!