庭球部に入部して

提供者: 昭和40年(1965)-平井克忠。 区分: 寄稿文
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平井 克忠

私がテニスを始めたのは、当時池袋にあった立教高校に入学し庭球部に入部したことが始まりです。素質もない上に、一生懸命練習するでもない私が、上手くなれるはずもありません。内心テニスには見切りをつけ、大学進学後は音楽関係のクラブに入ろうと思っておりました。ところが親は大反対! 軟弱な私が音楽関係に入ったら、ろくな事はないと思ったのでしょう。「庭球部に行かなければ学費は出さない」と一喝され、友人の藤原正勝君と一緒に大学庭球部の門を叩きました。しかし、高校時代の先輩でマネージャーをしていた唐沢さんにその旨を伝えると「ダメだ」の一言。二人で食い下がると、「どうしても入部したければ坊主になって来い」との事。結果、生まれて初めて坊主頭になり晴れて大学庭球部に入部いたしました。
当時は小西先輩達の大活躍で、開催される試合では、個人・団体共に大変優秀な成績を収め、立教テニスが最も輝いていた時代でした。それだけに練習はレギュラー選手優先で、一年生の我々は応援とボールボーイで一年が終わったことを覚えています。二年の合宿は仙台でした。昼間の厳しい練習の上、夜中にも叩き起こされ、旅館の廊下に一時間の正座をさせられるなど、厳しくも思い出深い合宿でした。合宿中体育会長の視察があり、その際の話し合いにより、9月より私は体育会本部に行くことに決まりました。思いもかけない決定に驚くと同時に、練習嫌いだった私は、これで練習をしなくて済むと内心ホッとしたものです。厳しい練習から一時離れ、仙台駅まで体育会長を送った時の空気が美味しかったこと! 今でも鮮明に覚えております。
こうして、二年の9月より体育会本部中心の生活となりました。リーダーズキャンプ、フレッシュマンキャンプの開催を始め、学生会費の部への配布、各部の推薦入学希望者の取りまとめなど、学生ではなかなかできない貴重な経験をしました。その他、活動のなかに国立競技場(後に上板橋グラウンド)で行った立教学院綜運動会がありました。小学校から大学までのオール立教の集いです。メインは中学から大学までの運動部がその年に獲得した優勝カップを持ち、各校の運動部員と小学校6年生が行う行進でした。当時の立教体育会は非常に強く、多くのトロフィーを掲げオール立教が行進する姿は、立教生の愛校心を強く揺さぶるものでありました。
卒業後はホテル旅館業の藤田観光に入社いたしました。50年前のこの業界の現場は古い体育会系気質で、入社当時は大変苦労をしましたが、学生時代の体育会での経験が大いに役立ちました。
庭球部の同期ほとんどが年金生活者となっているなか、キャプテンだった佐藤(石黒)勇君は今も現役で、宮城県議会議長を経て現在も初代の栗原市長として活躍しており、宮城岩手内陸地震の際、陣頭で復興に尽くしていた姿は我々の誇りです。これも、彼がキャプテンとして黄金期の立教テニスをまとめてきた経験が生かされているものと思います。私たちもすぐ後期高齢者の仲間入りです。鬼籍に入った南部君、田口君の分まで、充実した人生の第四コーナーを進みたいと思います。