川西テニス部長の思い出 テニス談義

提供者: 昭和42年(1967)-濱野公哉。 区分: 寄稿文

川西太一郎部長を思う

 ある日時計台塔と第一食堂の間にある、教授研究室での報告を兼ねた会話である。
「今年はどうですか?」
 柔和な顔立ちで少々声が小さく、笑顔をたやさず、先ほどまで経済学部長であり経済原論の講義をタッカーホールの壇上で授業していたとは、思えない。ケインズ経済学の根幹を成している有効需要の原理、ケインズの生きた時代の経済と自由な資本移動の政策論等、禁ズ経済学の第一人者でありました。

 当時は、当テニス部は関東大学リーグ戦で1部~2部への上下をくりかえした時期でした。1部4校、2部4校、3~5部まで4校ずつあり6部が20校以上ありました。今同様リーグ戦が一番の行事でありました。
「1部優勝、全国制覇は大いに可能性があります」
と返事をした覚えがあります。リーグ戦はシングルス6ポイント、ダブルス3ポイント、5セットマッチの9ポイント制で行われ1部校はほとんどがオールジャパンの資格者であり当校もほとんどの選手がオールジャパン有資格者でありました。
ある一部リーグ戦当日、上板橋立教コートで今まさに開始されようとして両行のオーダー交換寸前に中止延期の報が入りました。学連主導の運営の為、他の一部リーグ戦での日吉・慶応のコートが雨天で使えない。当時は携帯もなく公衆電話でのやりとり。同時開始が原則とのことで延期。

 当時学生運動の真っ盛り、各校の学校行事や試験よりもリーグ戦日程延期が優先されなんだか両校不完全燃焼だったのを覚えています。
 
 新年の挨拶に荻窪の三町監督宅に行き、その後監督宅も含め、高級住宅街を2ブロック奥に歩いて5分位の所に、河西邸があり、挨拶に廻った折玄関で和服姿の比較的小柄な河西先生が大きく感じた事を鮮明に覚えています。その折、私はギネスブックに申請しようかと冗談まじりで話していた事

「テニス部長として半世紀50年近く部長をやっているよ」との事

 偉大なるテニス部部長であり、数々のOB諸兄が沢山就職企業への推薦状、冠婚のメッセージ、授業でのテニス部員の成績配慮、公私にわたりお世話になったことを忘れてはいけない。立教テニス100周年にあたり、河西太一郎教授の部長期間は賞賛に値する事項である。

テニス談義
広辞苑には現在行われている球技のうちで最も古いものはテニスであると記載されている。テニスの起源は11世紀ともいわれている大変古い球技であり、又メジャースポーツなのだ。テニス用語は「なぜ?」といわれても訳の分からないことが多い。
① ワンポイント取ってフィフティーン=15、2ポイント取ってサーティ=30、3ポイントはフォーティ=40、0=ラヴなのだ?
② 強烈なサーブで相手を打ち負かしてのサービス(奉仕・給仕)とは?
③ 何故ツーバウンドで打ってはいけないのか?
④ テニスウェアは白が基調か?

 ①のカウントの由来は諸説あり、占星学説、時計説、貨幣説などいろいろありいずれも決め手に欠ける。テニスは13世紀フランス王宮盛んに行われイギリスにわたった経由があり、1579年フランスの学者ジーゼン・ガゼリンは「テニスのカウントは60が元になっている。時計は円を60に区切りこれを4分の1に区切ると15になる。
フランスのお金クローヌにも関連しており15を1ポイントに数え、60を10に分ける6が1セットの基調であり、3ポイント目の45が当初はカウントされていたが、口に出しやすい40に変わった。昔のフランスは60進法だったという説、フランス語の70は60と10(soixante-dix)であり60を区切りのよい数字としていた。
 
 ②のサービスの語源はスカイノ・デ・サロ(伊)の球戯論によるとサービスの方法は古くは数種類あり、その1番目に「サーバーは自コートで第三者からボールトスを得て、しかる後に第一打を打つ」さらに1527年ヘンリー8世がハンプトンコートでテニスをした際、サービスを行った者は王の傍らに立ちボールトスの際、ゆるやかなボールを送った、王はサーバーにお金を与えている。つまりサーヴは2人で行い、サービスはボールトスの事であり、サーバーの第一打とは別だった。あとになって第一打も含むように変化としたと考えられる。
 
 ③の何故ツーバンドで打ってはいけないか?はボールの起源にあって向かいのボールは革やリンネルなどの布の中にボロ布、髪、羊毛などを詰め込んだ物。今のボールに比べるとやや小さめで重く、弾みも悪く、コート地は砂地であったのでワンバウンドは打てたがツーバウンドはとても打てなかったのだ。
 
 ④のテニスウェアは白が常識
神宮クラブや甲子園クラブでは白ウェアを義務づけている。テニス協会の倫理規定によれば服装についてはプレイヤーは清楚で礼儀正しい習慣的に認められているテニスウェアを着用しなければならないとあり、色については
トーナメント主催者は参加選手に平等であることを条件に服装の色を規制出来る」とある。
白の伝統は日本では1878年横浜の山手公園専用コートでプレーを楽しんだレディスローンテニスクラブに始まり女子はロングスカート、男子は白の長ズボンと決められていた様子。

 純白のウェアがファッション化され、スタンダードになったのはウィンブルドンの1884年女子シングルス準優勝でリリアン・ワトソンが帽子、ブラウス、ドレスまですっきり白で統一したファッションが大人気となりそれ以来「ウェアは白を基調としたものを着用」という大会規定の歴史が始まり、白の常識が世界テニス界に浸透した。
世界四大大会でウィンブルトンは選手の服装に厳しく、規定にウェアは上下とも白であることが望ましい」とある。しかし今は世界的なテニスブームと共に何時の間にかメーカーによるファッション化が進み華やかな色彩ウェアがコートを賑わすようになった。