学連の思い出

 
 昭和41年庭球部に入部。3年の秋に浜野先輩、出口先輩、関東学連幹事長の蒔田先輩から、学連に推薦され、学連は何をするところかよくわからないままに、承諾した。関東学生庭球連盟・幹事の名刺を頂き、これが人生初めての名刺である。上板から渋谷・岸記念体育館の学連事務所が、学校に行くより多く居た場所となった。

 各種大会の大会コート確保、要項発送、申し込み受け付け、ドロー作りからコートレフリーまで1つの大会で2ヶ月ぐらいは忙殺され、リーグ戦、春秋関東学生、新進、毎日、学生室内、隔年のインカレ、東西対抗、王座をこなし、協会の関東選手権、全日本(隔年)、室内、デ杯も社会人と一緒と言ってもほぼ学連がこなしていた。大会のドロー会議は学連の大きな仕事で、シード付けの時に立教の選手を上位に入れたときは、気持ちの良いものであった。たまに選手からクレームを貰うこともあった。当時は、ジャパン、インカレ、関東の資格選手が多く、順位付けが難しく悩むことも多く、他の学連からの推薦をもらうために、根回しの必要性を覚えたのもこの頃だった。現役の諸君には、資格選手を常に多く抱えるテニス部にしてほしい。時間のある時に上板のコートに行くと練習のはじめのラウンドに入れてもらうこともあり、ニューボールで打たしてもらった。石川(現沢松)キャプテンには本当に感謝しています。ありがとうございました。

 2年の時にはユニバーシアード東京大会の運営に携わった。報道担当として、その日の結果を印刷するために印刷屋近くの旅館に泊まり込んだことがあった。3年から、全日学連に携わり、3年の1月から全日学連・理事長に推挙された。4年の時には、テニス普及の思いを込めて王座決定戦を広島で行い、各地区優勝校を一同に集めた大会とし地方で行うようにした。理事であった三町先輩にも大変お世話になった。記憶すべきは、学生室内にダフ屋が出て、ダフ屋が持っていた切符を交渉して、タダで返して貰ったことは、今でも鮮明に覚えている。坂井、神和住、沢松姉妹など人気選手がいたことが、テニスの人気に繋がり談話が、新聞にも載った。デ杯合宿には選手の世話役として、住軽金のコートに通ったこともあった。昼の休憩の時に小西先輩や他のデ杯選手と乱打をさせていただいたことは学連の役得であった。

 これらの思いである学連であったことが、後の人生に大いに役だっていることは確かであり、現役諸君にも学連の重要性を再認識していただければ幸いです。