学連に明け暮れた大学生活

提供者: 昭和56年(1981)-岸本誠。 区分: 寄稿文

 
 私は1977年4月に立教大学社会学部に入学しました。大学生活が、どのようなものになるのかも皆目見当がつかず、期待と不安の中で4月を過ごした事を覚えています。そのころ、立教中学テニス部の一年先輩である大塚さんからテニス部入部を勧められました。我が家は、父親も立教テニス部の卒業生であり、テニス部に入部を考えていましたが、大塚先輩の強引な誘いに背中を押された感じでした。
 午前中は池袋で授業、午後は富士見町で練習という毎日を送っていた夏のある日、秋元主将から学生連盟(学連)の委員をやらないかというお話を頂いたのです。その当時、立教の学連委員には4年生の高橋先輩がいらっしゃいましたが、リーグ戦2部に位置していた立教は、その後釜を学連に送り込む必要があったのです。
 そして私の学連での生活が始まりました。学生連盟の仕事は、連盟が主催するリーグ戦、関東学生、インカレなど学生テニス大会の準備・運営と、日本テニス協会が主催する全日本選手権やジャパンオープンなどへの運営協力などがあります。当時、事務局は渋谷区の岸記念体育館の日本テニス協会事務所の一角にあり、下級生には電話当番や雑多な仕事があったため、毎日のように学連事務所に通ったものです。
 高学年になるにつれ段々と責任ある仕事を任されるようになり、4年時には全日本学生庭球連盟の理事長を務めることになったのです。学連での様々な仕事の中で最も想い出深いものは、全日本大学対抗庭球王座決定試合(大学王座)の開催です。大学王座は、団体戦の日本一を決める大会で、全国8ブロックのリーグ戦チャンピオンが出場します。1980年(昭和55年度)の大会は、福島県いわき市で開催しました。 開催までには1年以上の準備を要し、福島県教育委員会への後援依頼や会場使用の交渉、地元有力者やスポンサーとの折衝等、何度も現地を訪問するなど、ようやく開催に漕ぎ着け、開会式を無事迎えたときには、心底ホッとしたことを今でも覚えています。結局大会は、男子は中央大学が甲南大学に、女子は園田学園女子大学が市邨学園大学に勝って日本一に輝きました。準備は大変でしたが、多くの仲間や関係者に支えられたことは忘れられません。
 私の同学年には、甲南の中西、早大の白戸、立野、日大の右近など、力のある選手が大勢おり、彼らのプレーを間近に見ることが出来たことも学連での貴重な経験でした。ただ残念だったのは、毎年、立教のリーグ戦に立ち会いながら、レフェリーという立場上、表立って応援することが出来なかったことです。
 学連での経験は社会人になってからも大いに役立つものでしたし、それを通じて築いた人とのつながりは、35年を経た今でも大切な財産です。これらのことが、全て立教大学テニス部から始まっていることは言うまでもありません。