学連での4年間

提供者: 昭和61年(1986)-石川順。 区分: 寄稿文

昭和61年卒の石川です。私は年間学連幹事として活動し、4年生時は全日本学生テニス連盟理事長を務めました。*学生テニス連盟は学生だけで運営している唯一の学連組織です。

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テニス部経験のない私でしたが、テニスが上手くなりたいという強い志で体育会に入部しました。5月末頃、幹部の方々から学連幹事になるよう要請され、断る勇気も無く(笑)、1年間限定でお受けしました。学連の仕事は本当に大変でしたが、そんな中で関東学生の予選ドロー作成時には、私の目の届く範囲にきた立教部員分は、できる限り良いドローにしました。(良くできなかった人、ゴメンナサイ。)

2年生になり、テニス部のため、そして自分のためにもなると考え、学連を続けました。私は学連に同学年で最初に入り、その中心として率先して活動し、上級生からも一目置かるようになりました。テニス部のために、有資格者を対象とした中央新人合宿に無資格の立教部員の参加に成功しました。日本テニス協会の手伝い(プレス担当)を通じて、日本テニス協会の役員(大企業の相談役クラス)や新聞・雑誌・テレビのスポーツ担当者には特に可愛がっていただき、何度も食事や飲みに行きました。また国内トッププロ選手と面識も出来ました。国際大会開催時は、外国人スポンサー担当者や外国人選手と英語で会話する機会にも恵まれました。

3年生になり、全日本学生テニス連盟に選抜され、大学王座(福島)、東西対抗(愛知)、インカレ(兵庫)、インカレインドア(東京)開催のため、各役所やテニス協会に後援のお願いや試合会場との条件交渉、そして大会開催と、各地を駆け回りました。

大変なこともありました。リーグ戦で立教の試合のコートレフェリーをしたとき、オーダ交換を終えると相手校から歓声が上がりました。驚いて確認すると、立教のオーダ用紙に不備があり、「立教の失格負けだ」と騒いでいました。私は瞬時に判断して相手校のコートレフェリーを伴い、電話で学連本部に状況報告しました。本部に詰めていた関東学連幹事長は日頃から大変親しくしていた上級生で、「提訴する権利を与えることを前提に試合続行」の判断を、幹事長から相手校コートレフェリーに直接説明して納得させてもらいました。コートに戻り相手校コートレフェリーから相手校に状況説明させました。失格勝ちだと騒いでいた相手校(幹部は私より上級生)は怒り狂いました。私は怯まず腹をくくって試合を始めるよう促し、試合を行なわない場合は棄権負け扱いとすると言い渡して試合を開始させました。当日の様子はすぐに関東学連・全日学連幹部に伝え根回ししました。後日、相手校から提訴がありましたが、対応会議で協議の結果、提訴は却下となり、立教テニス部に大きく貢献できたと自己満足しています。

4年生になり、全日本学生テニス連盟理事長に就任しました。インカレインドアでは初めて企業協賛を獲得しました。同時に日本テニス協会評議員、同審判ルール委員会委員として、日本テニス協会の仕事に従事し、中でも全日本テニス選手権(ジャパン)では競技運営委員長として大会運営を切り回しました。この時に、国内トッププロ選手との面識がとても役立ちました。また、女子国際ステップアップツアーの茨城大会の立上げに参画しました。どれも貴重な経験でした。

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4年間を振り返ってみると、最初はテニス部の仕事としてテニス部のために学連に入りましたが、次第に私の願いとして学生テニスをいかに強化するかを考えるようになり、現役学生のデ杯選手輩出が目標となり、その目標も実現できました。学連活動を通じて他校、それも全国の他校学生と語り合うことができ、先述の通り一般学生ではなかなか出来ない経験も出来ました。全力疾走し大変充実した4年間であり、とても幸せな思い出です。