大学4年間テニスを続けたこと

 
 高校時代、インターハイ出場の経験もなく、それでも「なにか一つのことを一所懸命にやってみたい」という思いだけで入ってしまったテニス部。初日の練習で自分の考えの浅さを思い知らされた。「レベルが違いすぎた」。そんな自分が、なぜ4年間、辞めずに頑張れたのだろう?いまでもその理由はわからない。
 
 埼玉・志木にある富士見グラウンドは、自宅がある神奈川県・大磯町からは、3時間弱。午前の練習がある時は、始発の午前4時47分発の電車に乗って出かけた。練習が終わって自宅に戻るのは10時過ぎ。そんな毎日を続けていた。3年からは、法学部のゼミにも登録。学校の授業と練習で一日のほとんどが終わり、そのほかには、なにもできなかった。4年時には主務の仕事も加わり、特に忙しかった記憶がある。合宿に行っても練習に参加できずに、OBへの連絡に追われていた時もある。でもなぜか悔いは残っていない。
 
 練習が終わってから、コーチに先導され、何週もトップスピードでコートの周りを走らされたこと。テニスコートが荒れてきた時、重い石のローラーをみんなと一緒に引き続けたこと。学ラン姿でボールボーイをして、他校のボールボーイと競いあったこと。リーグ戦の試合に提出するオーダーを書いた後、震えながら判子を押し、当日忘れないよう、何度も何度も荷物を見直したこと。

 どれもこれも、普通の学生生活をしていては味わえない、特別な瞬間だった。

 もちろん、主務となってからも、選手として活躍する夢は持ち続けていた。ただ、その夢はかなわなかった。テニスについては、いまでも多くの後悔が残っている。言い訳をせず、人の倍、いや3倍ぐらい練習していたらどうだっただろう?今思うと、練習の最後の一倍きついところを逃げていた自分が思い当たる。1年生の時にどんなレベルであろうと、強くなって行く人はいる。そこが達成できなかったことは今でも悔いている。
 
 だが、4年間、テニス部で頑張れたことは、一つの自信として、心の中にしっかり残っている。試合に出られる選手も、裏方で支える人たちも、一つの目標に向かって心を一つにして頑張ってゆく。負ければその翌日からまた同じことを繰り返し、翌年に雪辱を期す。そんな営みに参加できたこと。それが今の自分を支えている。

 夏暑く、冬寒い、逃げ場のない志木グラウンドで、練習を重ねた人だけが味わえるものが確かにある。それがなんなのか。そんな問いを続けながら、4年間はあっという間に過ぎてしまった。

 志木で過ごした一瞬、一瞬がいかに大切な時間だったか。100周年に向けた寄稿文を書きながら、いま、それをかみしめている。