坊主頭

提供者: 昭和44年(1969)-小長井彰。 区分: 寄稿文

 
 昭和40年3月17日の東京は雨であった。私は静岡から上京して東伏見での大学春合宿に参加した。カンカンカンと鳴り響く西武新宿線の踏切音が耳についてなかなか眠れなかった。入部1日目の思い出である。
 
 4月から関東1部リーグ戦が始まる。有名選手のプレーを目の当たりにし私もこのようなプレーヤーになりたいと思った。

 リーグ戦終了後に始まった関東学生予選会で単は負けてしまったが、泉谷君と組んだ新入生ペアは慶応コートの複ブロック決勝へ。6-2,2-6,8-6で勝ち関東学生になった。慶応大学の学食で絶対勝つぞと食べた立教の学食より10円安い70円のカツ丼が懐かしい。しかし8月に行われた秋の関東学生予選会では複でシードダウンして坊主になった。先輩から「つまめる、もっと短くして来い」と言われてもう一度床屋へ行った。当時散髪代は200円であったが、一日に二回も散髪したことは後にも先にもただ一度である。そのショックは大きく単もブロック決勝にてファイナル4-6で負けてしまった。関東学生の壁は厚い。

 12月には恒例のテニス部員及びそれぞれのパートナーだけで行う内輪のダンスパーティーが赤坂プリンスホテルである。「パートナーを連れてこないと坊主だぞ」と先輩に言われ、クラスメイトにお願いして事なきを得た。数年前のクラス会で彼女に「おかげで坊主を免れた」と話をしたら笑われた。今でこそ笑い話だが当時は必死・・・。
 
 期末試験の後に体調を崩し休部。学連担当となる。2年生春の関東学生予選会は東大生と対戦。頭で負けてもテニスでは勝ちたかったがファイナルで負け。この時の悔しさをバネに秋の予選会、複は1年生の朝倉君と組み、単ともどもブロック優勝、関東学生となり現役復帰。最終的には4年で単・複インカレに出場できた。
 
 今でもはっきり覚えている試合がある。それは3年生の時の毎日トーナメント。場所は神宮クラブ。同期の須田君と組んで出場した複4回戦。ファイナル5-0、40-0のマッチポイントを取りながらあと一つが取れずに逆転され、7-5で敗れオールジャパン予選出場を逃したこと。このことは、「どんな状況であろうと絶対に油断しない」という教訓として今でも脳裡に刻まれている。
 
 4年生の昭和43年関東1部リーグ戦は完敗。2部降格で坊主になる。
 
 立教大学へ合格した時に伯父から「坊主の学校に行くのか」と言われた。「西洋の坊主」という意味であろうが、まさか2回も(正確には3回)坊主になるとは夢にも思わなかった。今は地元静岡で曹洞宗のお寺の幹事と護持会の監事をしている。坊主に縁があるのは大学のテニス部に由来があるのかもしれない。