在部4年間の思い出

提供者: 昭和38年(1963)-倉光純。 区分: 寄稿文

 
テニス部を卒業して早いもので53年、創部100年にあたり昔の記憶をたどりながら4年間の想い出を箇条書きにしてみたいと思います。

  1. 入部にあたり高校卒業式前に養和会で合宿中の大学テニス部に田口君と挨拶に行ったところ、頭を坊主にして明日から合宿に参加せよとのご指導を受け、高校の卒業式を坊主頭で出席せざるを得なかったのは当時かなりのショックでした。
  2. 2年のリーグ戦は捨てポンの4番で出してもらい法政との入れ替え戦で明神さんに勝ったところで一部昇格が決まりうれしくて涙が止まりませんでした。
    その一ヶ月後に春の関東選手権でベスト16をかけて親父(倉光安峯)と対戦して負けたこと、家で一緒に朝食、母親から痙攣時の焼酎をそれぞれ持たせられ、親父の車で早稲田のコートに行き容赦なくやられました(勝たせてくれたらオールジャパンに出られたのに)。親父は立教のコーチを拝命していてほとんどの学生は勝てませんでした。当時の親父は45歳以上のベテランと一般の両方に出場していてベテランではオールジャパンの常勝でした。
  3. .3年のリーグ戦では同期でパートナーの合瀬君が脱腸で参加不能となりおしくも一部二位で優勝を逃がして名古屋の王座決定戦に行けませんでした。残念。。。その後の春の関東選手権ではシード10位明治の森さん、7位朝日生命の長岡さん、2位法政の柳君に勝って準決勝で小西さんに負けました。小西さんに勝てれば決勝での法政の菅君(現在の森くん)には勝てる自信がありましたのでこれも残念。結果は菅君が小西さんに勝っての優勝でした。
  4. 4年の明治との入れ替え戦では試合が4-4となり最後のひと試合がお互いの主将同士となり、私が痙攣をおこして負け、2部に降格したことは53年たった現在でも同期の皆、先輩方々、翌年から2部でリーグ戦を戦う後輩たちに本当に申し訳けなかったと思っています。そして、春の関東学生では、準々決勝で法政の菅君と対戦し6-4,6-0で2セットアップしながらロブばっかりあげられファイナル5-7で負けてしまい、前日まではベストオブ3セットマッチでしたのでこれも大変残念な結果でした。
  5. 4年間のテニス部生活では試合結果は大変残念なことばかりでしたが、良き仲間に  恵まれ今思えば本当に楽しい有意義な4年間でした。この4年間で培われたことは社会人になっても大いに役立ち、それなりのポジションにつけたのも全てテニスのお蔭といっても過言ではありません。 今でもテニス部には感謝しています。また、同期の仲間とは現在でも毎年数回ほど奥様と一緒に会食の機会を設け、楽しく昔話に花を咲かせています
  6. 最後に創部100周年を迎えたときには現役は男女ともに一部昇格との掛け声でOB/OGの方々が活動されてきましたが残念ながら一度もかなっていません。ややもすると活動自身が空回りしているのではと思う時があります。ご承知の通り今の大学事情は我々の時代とは大違い、そこで、もう少し現実的なところに標準を合わせたらと願うばかりです。