主務として犯した3つの誤り

提供者: 昭和49年(1974)-浅見豊。 区分: 寄稿文

 
 2016年立教大学体育会テニス部は創部100周年を迎えました。部の発展に尽し、100年を継いでいただいた先輩方のご努力とご支援の賜物と心から感謝致します。
 
 私は1970年立教高校から進学、入部致しました。当時リーグ戦は4月に行われ、(2001年まで)3月からは練習には参加していたとはいえ、いきなり極度の緊張状態に身を置いた。
1年次全日本ランカーの宮下主将を筆頭に日大、東大、青学を連破し2部優勝、しかし明大との入替戦は3-6と敗れた。
2年次も安達主将を中心に2部優勝はしたが早大に2-7と撥ね返され、1部の壁の厚さ高さを思い知らされた。
 
 3年次、4年生は清水主将、内原主務及び初代女子マネの篠崎さんの3名であり、3年生2年生主体のチームであった。この2年間の悔しさを胸に練習に邁進する日々であったが、前年秋の定期戦は、同志社戦こそ9-0と完勝したが、明大にはマッチポイントを握りながら逆転されたゲームでもあり4-5で敗れるという状況であった。迎えた1972年のリーグ戦は、日大9-0、成蹊8-1、青学8-1と破り、3年連続で2部優勝を飾った。一見楽勝の様だが、27ポイント中8マッチが2セットオールに縺れていた。この第5セットを7勝1敗で凌ぎ切ったことがこの大勝に繋った。いよいよ入替戦、相手は明大。複のペア替えが功を奏し初日2-1とリード。翌日の八幡山の明大コートには20名近くの先輩方が駆け付けて下さった。単も4-2と制し計6-3で4年振りの1部昇格が叶った。
 
 4年次夢にみた1部リーグ戦を鈴木主将浅見主務の体制で迎えた。初戦は法政、初日の複を2-1とリードしたが、翌日の単にデ杯合宿から平井選手を引っ張り出され(6年生、2年間登録抹消されていた)単2-4、計4-5で敗れた。第2戦はこの年大学王座を勝ち取った早大に複2-1単3-3計5-4で勝利、残る慶大に勝てば王座に出場できると期待に胸が膨らんだ。しかし早大が6-3で勝利している慶大に複2-1とリードしながら4-5で敗れ1部3位という残念な結果となった。個人戦の時はあまり感じない慶大のリーグ戦での現役、OBを併せた団結力を思い知り日吉蝮谷の階段を登る足の重さは今でも忘れない。このことが、私の現役応援のモチベーションの底流となっている。
最後に主務として3つの誤りを犯したと反省していることを記します。
 
 まず、リーグ前の合宿地を前年同様の日置川にしたこと。1部昇格達成の緑地を担いだ訳ではありませんが、部員全員の希望でもあり考えもせず決めてしまった。結果前年は国体直後の素晴らしいコンディションであったがその後の手入れがされていなかった。また和歌山という遠隔地であり先輩方にご指導においで頂けなかった。名古屋か大阪で実施すれば、地元大学との練習試合も組めた。
 
 次に、全日本室内のセットボールを購入したことである。当時大学からの援助は0、OB会費と部費で購入していたボールであるが十分とはいえず、フェルトも十分残り見かけはニューボールに近いものであった(愚かにもグッドジョブと自讃していた)が、微妙にコンプレッション不足であった。
 
 そして、複のペアリングである。それまでの個人戦でのいきさつやリーグ戦での結果経緯から当時の立教として考えうる最強ペア、鈴木・八木沢組を実現しなかったこと。

 以上3点が(もっとあるだろうという声もあるが)主務として全くの思慮不足であったと猛省しています。