ボールの想い出

提供者: 昭和23年(1948)-古谷雄二。 区分: 寄稿文

 
 私は昭和18年4月立教大学・予科へ入学、庭球部に入部しました。第二次世界大戦の敗色が濃厚となった昭和19年秋、学徒出陣いたしましたが、翌20年終戦となり復員。復学して再び庭球部員となり練習を始めました。そして野田先輩の後を受けて学連マネージャーとなりました。

 当時、日本庭球協会、学生連盟はともに国鉄お茶の水駅の傍の岸記念体育館にあり、以後はほとんど毎日、ここに通うことになりました。

 学生連盟の活動は、先輩方のご尽力で、戦後の空白期を脱し、すでに軌道にのっておりました。慶応義塾大学の斉藤さん、川眞田さん、法政大学の渡辺さん、和田さん、早稲田大学の内田さん、増田さん、東京商科大学の近藤さん、東京大学の安川さん、高さんなどから種々ご指導を受け仕事をさせていただきました。

 戦後のことですべてが不自由な時代でしたが、中でもボールは本当に苦労しました。大会で選手の方々によいプレーをしていただくためにも、ニューボールを確保せねばならず、故人となられた井上昶氏にずいぶんとご無理をお願いした記憶があります。

 私たち学生連盟の各大学でも、ボールはリンク制で、フェルトのはげた真っ黒の古ボールと引き替えに配給を受けたものです。私はその古ボールの中にまだ使えるものがありはしないかと、一つひとつ見ては使えるものを探してそれを大切に大学に持ち帰った覚えがあります。

 先日私宅から当時の『富士ボール』の箱が出てきました。ブルーと黄色の、あの懐かしい箱を覚えていらっしゃる方も大勢おられると思います。中のボールを手にすると、楽しかったこと、苦しかったことなど数々の想い出が浮かんできます、当時はまた食糧難の時代でもありました。

 私は第1回の大阪国体、第2回の金沢国体でレディースの皆様方にたいへんお世話になりました。桑名さん、伴さん、朝長さん、原さん、近藤さんなどなつかしい方々です。

 このようなご縁で、田園クラブあるいはパレスクラブで、レディース対学連マネージャーの懇親試合をさせていただきました。なんと40年前の想い出です。