テニス部創部100周年準備委員会の皆々様へ

提供者: 昭和27年(1952)-橋本幸信。 区分: 寄稿文

 
 100周年記念事業の準備に、ご努力いただき、誠に有難う御座います。10年後、私は米寿に近くなっています。健康であればいいが、どうなっているか分かりませんので、一筆したためました。
 
 私が立教に入ったのは、戦後1年半のことです。戦時の菜っ葉服から、黒の立襟、金のボタンの学生服を仕立ててもらい、「大学生になった」と、感激しました。

 池袋西口から大学までは、露店に近いバラックでびっしり。そこでは焼き芋、たいこ焼きなどを売っていました。そこで買った食料をポケットに忍びこませ、テニスの合間にかじっていました。食欲旺盛なのに、食べる物が無い時代でした。

 「庭球(低級)と言えども硬球(高級)だ」と、庭球部に入って、岸本駿ちゃんと同期。生まれて初めてラケットを手にしました。ガットはまだナイロンがなくてシープ(羊腸)。練習中もよく切れ、出張管理の人が直してくれました。こんな仕事でも生活が出来たのですから、いい時代だったのかもしれません。ボールはフェルトがすり切れ、大きさ、重さはニューボールの何分の一しかありませんでした。

 初めて試合に出たのは、入学の年の秋。同じ予科1の橋本健ちゃんと組んだダブルス。場所は皇居のパレス・コート?相手は一部校であった一橋大学の角帽の人。こちらは丸帽の初陣。学年は3年以上の差がある。しかも不精ひげのオジサン。生まれて初めて、ニューボールに触った。フェルトがふかふかしている。しかも重みがあって、信頼度が高い。「これが本当のテニス・ボールなのだ」と、嬉しくて・・・・。パートナーの健ちゃんと息がピッタリ。サービスも、ろくな玉しか出来ないが、声を掛け合い、アッとの間にストレート勝ち。さー天狗になること・・・・

 部員は櫻井主将、石井主務を始め学部3年、予科3年。私達がオジサンみたいな先輩に云われたことは「イェス・サー」。昼休みにコートのローラー引き。放課後は線引き。コートやセンターネットの補修。練習になれば終日ボールボーイ。コートには、身の丈ぐらいの高さの石塀があるだけ。ネットがあれば、道路の向こうの布団屋さんまでボールを取りにいかなくてもよかったものを・・・・。レギュラーの練習。ボール・ボーイをしても、学ぶことが多く、時間の過ぎるのを忘れるようでした。最後に我々の番。先輩をまねしようと思ってみたが、そう簡単にはいかない。それでも練習は好きでした。ところが、お偉い先輩さんが、遊び半分で来られると、自分の練習は中止して、ボール・ボーイに逆戻りとなりました。以後ツルツルのボールさえ打つこともありませんでした。そこで、「卒業したら、コートには行かない」と決め、間実行しています。

 予科2年のとき、松井先輩の後にくっついて学連のサブ。当時は御茶ノ水にあった岸体育館へ。成長の無い練習をして卒業しました。

 卒業後、小野君ら主務はOB会費を取りに来た。当時、銀行振り込みも無かった時代。「いつもご苦労さま」。

 総会などのご案内を毎回お送りいただく度に、先輩、同輩、後輩、在校生達に会いたいと思いますが、心を鬼にし、今後も自分勝手に決めたことをすすめて参ります。お許し下さい。

 どうぞ、セントポールテニスクラブの発展を深く祈ります。