テニス部の思い出

提供者: 昭和40年(1965)-町田昭雄。 区分: 寄稿文

 
 100周年委員会から、立大テニス部の歴史を後世に伝え、101年以降の方針を明示したいとの考えており、現役時代の思い出、または現役テニス部への激励等のため寄稿の依頼がありました。

 卒業後は今迄後輩の応援、激励等出来ませんでしたが、常にOBとして「何部の何位」にいるか、気にしており、少なくとも二部の上位であってほしいと思っておりますが、現在は三部の三位という事で、少々残念な気がしております。(2014年現在)

 我々は1961年~1965年迄の4年間在籍致しましたが、この100年の歴史の中で最も全盛の時代を過ごしたろ思っております。やはり各学年に1~2名全日本、インカレプレイヤーと強力な選手がおりました。4年委は小西、石井先輩、3年には倉光、合瀬先輩、2年には高橋先輩そして1年には石黒、町田がおりました。後輩には倉光哲が入部し、入部時には2部でしたが、卒業時には1部に昇格し目標を達成しました。当時は早・慶が常時1部に、明治、法政、立教が2部を行ったり来たりで立教も2部時何度か入替戦を経験しましたが、実力が上だと分かっていても、入れ替え戦となると勝てないことがいく度もありました。又、個人戦では小西先輩インカレで優勝してのも思い出として残っております。

 我々の時代は推薦入試もあり強い選手がそろいました。テニス部は当時ブームもあり、40名ほどが入部してきましたが、1日中ボールボーイをさせ、練習はさせず終了時にはグラウンドを何週も走らせ、いやになり少しづつ退部するものが出て、精神力のある十名程度が残り、運営してまいりました、技術的なものはもちろん、チームワーク、団体生活と云うものを身に付けられました。これは、後に社会に出てから私にとっては大変役に立ちました。会社で部下に指導してまいりました。練習は365日試験の日を除き、コートにおりました。授業にはほとんど出席しませんでした。練習帰りに上板橋周辺でラーメンを食べて帰りました。試験時には、先輩の教科書、ノートを譲り受け徹夜で準備をし望みました。又、合宿も毎年行われ、3年生時には東北大で合宿し、帰宅時にあるものの喫煙がバレ、全員坊主にさせられたり、冬、新学院のコートで、霜対策としコモ(ワラ)を敷いて帰るのですが、さぼってバレたり怒られたりもしました。又、何が原因だったか全員で退部し、三町監督の家に行き、説得された事もありました。

 試合には勝つことが先決ですが、練習時には「一番下手」と思って人並み以上に練習をし、試合になったら日頃の練習で自信をつけ、「一番上手」と思い、試合に望みました。今の現役も、このような気持ちを持ち練習に激み、少しでも上位を目指してほしいと思います。