ダメ部員が主将に

提供者: 昭和52年(1977)-石上富一。 区分: 寄稿文

 

   昭和52年卒業の石上富一〔兵庫県立兵庫高等学校出身〕と申します。私は主将を務めさせていただきました。小西先輩が監督として、倉光哲先輩がコーチとして両先輩のご指導を賜りリーグ戦を戦いましたが成績は2部の2位でした。戦力的に非常に厳しかったですが、何とか前年の成績をキープすることが出来て「ホッと」したことを覚えています。

私は、ダメ部員でした。一年生の時は1週間ほど行方不明になったり、二年生の時は突然「税理士資格を目指すから退部します」と退部届を出しました。こんなダメ部員が主将になりましたが、部を運営するのはすごく不安でした。私達の代の3年は4人、2年の鷲田の代は5人と部員人数的に少なく存続の危機感もありましたが、1年の秋元、原田の代は10人の入部があり合計19人の部員で活動する事になりました。目標は当然一部復帰でしたが、テニス同好会が乱立している中、なぜか体育会テニス部に入部してきたのだから「皆を体育会テニス部で全うさせてやりたい」「彼達を私のようにウロウロさせない」と私としてはこれを一番の隠れ目標としました。

テニスの技量のない無資格の私は実力世界の部をどのようにまとめていけばいいのか、こんな私が部員を指導出来るのかと悩みました。テニスは個人スポーツですが、部の一体感が個の気持ち強くさせると思い、その一体感作りの手段として鷲田に犠牲になってもらおうと思いました。ジャパン資格であった彼は、試合出場とかデ杯候補選手としての練習会などで立教の練習に参加出来ないこともよくありましたが、立教の練習に参加出来た時は手を抜くことなく一生懸命練習していました。そんな中で毎日練習しているとどうしても練習がダラけた雰囲気になることがあります。そう感じた時、特にリーグ戦前とか対抗戦前の練習後の集合ではジャパン資格の鷲田を無資格の私が名指しで叱りました。「鷲田、練習の態度がダラけている、罰としてグランド5周」とか「鷲田、もっと真剣にボール拾いをしろ」と言って叱りました。鷲田は少しも悪くありませんでした。むしろ誰よりも一番熱心に練習し、誰よりも一生懸命ボール拾いをし、誰よりも丁寧に部員を指導していました。部員もそんな鷲田を見ている訳ですから、私が鷲田を名指して叱っているのを見て、「なぜ、鷲田が!?」と思っていたと思います。しかし、鷲田は私に反抗することもなく素直に「申し訳ありません」と言ってグランドを走っていました。鷲田を叱った後は、キュッと部の雰囲気がしまった感じになりました。罰ランをしている鷲田を見て他の部員達は「ジャパン資格の鷲田さんが叱られて走っているのは自分達が叱られているのだ。自分達はもっと緊張して練習しなくては」と感じてくれたと思います。このことの繰り返しによって部がまとまって一体感が生まれてきたと今でも思っています。自分勝手な自己満足の納得かも知れませんが・・・。彼の存在が私の部運営の助けとなりました。主将が務まったのは彼のお陰でした。「鷲田ごめんな。」

立教大学体育会テニス部が今後ますます発展される事を祈念いたしまして寄稿文を終わります。