ダブルスパートナー

提供者: 昭和50年(1975)-中島幸彦。 区分: 寄稿文

 

私は関東平野の北端、都心から80km余の群馬県館林市で生まれ育った。田んぼや畑を走り回り利根川で川遊びをするという文字通り田舎の子供だった。

毎日を楽しく遊ぶことしか考えていなかった小学5年生の正月、父から「中学校から東京に行け」と突然告げられた。当時は東京に行くこと自体が珍らしがられ話題になる土地柄、自分には到底理解に及ばぬ話だった。

6年生になると東京・中野にある進学教室なるものに通わされた。毎週日曜日になると片道2時間半電車を乗り継ぎ通うのだが、一人で東京へ乗る子供など無く毎週末は怖くて仕方なかった。そして、教室で居並ぶ東京の小学生は皆頭が良さそうで垢抜けていた。勉強以前に先ずは劣等感との戦いである。

父は母校の慶応中等部(後、慶大庭球部)に進学させようとしていたが当の本人にその実力は無く、立教中学に入学を許された。唯一自分の意志で選んだ受験校で、合格は嬉しかった。

 

入学式を終え池袋にあるアパートの一室で東京生活が始まるのだが、誰一人として友人知人が居るわけでなく地理も不案内。怖くて一人、毎日震えながら暮らしていたそんな自分にとってテニス部に居る時間だけは寂しさや恐怖を忘れさせてくれる安息の時だった。部活と言っても一年間はローラー引きとコート整備、トレーニングとボール拾いだけだが東京で始めて出来た友達の居るテニス部は私の楽園だったのである。

2年生になった夏の或る日、新聞の「アジアハイウェイ 部分開通!」の記事が目に留まった。雷に打たれた様に体中に電流が走り「これだ!行きたい!」と心が躍った。

瞬時にテニスは中学・高校の6年間だけで辞めよう。大学に入ったらアジアハイウェイ研究会を立ち上げ在学中に北京からイスタンブールまで走破だ!とお想いを定めた。古のシルクロードに夢とロマンを重ね合わせ、胸は熱くなるばかりだった。

テニスの事は何んにも分かっていなかったが、当時の自分が知る最高レベルの大会「関東中学と関東高校でそれぞれシングルス・ダブルス・団体の三冠優勝」し、テニスは終了!と最終目標も立てた。幸いに事目標は達成出来た。中学では東京人には負けたくない!という田舎者コンプレックス、高校では(テニスは)これが最後!という切迫感が勝利への原動力となった。

戦歴の華となった「インターハイ」にも触れておきたい。団体戦決勝で2年連続して柳川商校(現 柳川高校)に敗れはしたが、当時の立教新座高校は規立・団結・修練が行き届いている全国屈指のテニス部だったと思う。そして日本で一番練習した柳川が団体優勝旗を持ち帰り、二番目に練習した立教がシングルス優勝旗を持ち帰った。種目はシングルスだがテニス部全員で勝ち取った優勝であり、キャプテンだった自分が代表して受け取れたもの。優勝したその夜から今日までずっとそう思っている。

ご褒美で当時の世界ジュニア選手権「オレンジボール」に日本代表としてマイアミに赴いたが、大会中に担任の先生から緊急の国際電話が入った。のんびりテニスなどやっている場合じゃない!大学へ行けないぞ。直ぐ帰国して3学期の試験を受けなさい!…返す言葉もないままその後の中南米遠征を断念し、単身途中帰国した。畜生、絶対にここ(米国)に戻って来る!と決意を新たにした海外遠征であった。

 

中学・高校と苦楽を共にした同期全員が大学テニス部に入部すると聞いた。今更「オレ、アジアハイウェイに……」とはとは切り出せず、不承不承入部を決めた。が、どうしても釈然とせずタッカーホールで入学式を終えたその足で学生相談所へ行きドアーを叩いた。どうしたら休学出来ますか?!

テニス留学させて下さい!と主将に掛け合い真意を隠して休部、8月20日アメリカへ向け飛び立った。夢に描いていたアジアハイウェイ・シルクロード走破はアメリカテニス留学にとって代わったが、中学以来の思いの実現に心は弾んだ。

英語は中学時代から赤点以外取ったことないし英会話は論外、そんな自分でロスアンゼルスに降り立ちアメリカ生活がスタートしたが、もとより兎にかく行ってみよう!行って何んとかしよう!行けば何んとかなる!の体当たり留学。甘い現実があろう筈もなく挫折、挫折の連続で心も折れんばかりとなった。先にさしたるアテもない生活に無心も出来ず、父からの送金は断った。稼がねばならない。不法行為を知ってはいたが色んなアルバイトをして食い繋ぎ、1日1ドルで生活した体験と自信はその後の財産となっている。

テニスどころか日々の生活を続けることで精一杯だったが幸運が訪れ、渡米5ヶ月後にして念願の大学入学が許された。狂喜乱舞、これでやっと本当のテニス留学が始まる。レッドランズ大学に在学中の様子は、テニス誌・モダン テニスに掲載して頂いた。

シーズンオフを利用して、米国本土48州を隈無く走破する旅を企てた。キャンピングカーを駆って75日間。35000kmの長旅となったが、シルクロードへの夢はこの旅で幾分晴れた。生活も落ち着きグライダー操縦学校へ通い、小旅行(サンフランシスコ・ラスベガス・サンディエゴ ETC)を楽しみ、テニス以外の異る体験に多くの時間を割いた。多様な経験が楽しく興味が尽きなかったが、時あたかも「何んでも見てやろう!小田 実著」がベストセラーの時代でもあった。

 

テニス留学の筈が米国留学と変わり15ヶ月振りに帰国、テニス部に復部したもののアメリカで覚えた自由で刺激的な日が忘れられず、今度は日本国内でそれを求める生活となった。テニスは疎かとなり資格も入学当初の「全日本」から「無資格」へと落ちぶれた。周りから非難と嘲笑の嵐を浴びる身となったが、それも自業自得と受け止めた。テニス部にこんな自分の居場所がある筈も無い。鼻持ちならないお荷物迷惑部員はテニス部に要らない。

他人からの評価は仕方ないが、自分への信頼を失うことは耐え難く、自分復活に賭けた。目標は全日本選手権に出場してテニス部とはお別れだ。

幸いに戦績を残し秋の全日本に単複共に出場出来た。生まれて始めて死ぬ気でテニスに取り組み、何んとか自分への自信と信頼を取り戻せた。

2年間休学していたこともあり卒部はしたが大学生活は残った。好奇心は変わらず、イーグルゴルフ同好会に入ったり、杉ゼミに入って勉強に励んだり、テニスコーチをしたり(小学生時代の松岡修造君のプライベートコーチ ETC)、仏車シトロエンを駆って日本一周の旅もした。60日間・23000kmですべての都道府県から離島に車で足を伸ばす完全走破だった。

思い着くこと、やりたいことはすべてやり尽くし、満ち足りた気持ちで卒業式の朝を迎えた。悔いのない学生生活だった。

人並みに就職はしたがすでに在学中自分で会社を起業しその仕事もあったので、平日はサラリーマン週末は社長兼社員と忙しい社会人スタートとなった。時間に追われる生活の中でいつしかテニス部のことも忘れて行った。

 

待てよ、何かが変だ。一体オレはテニス部で何をして来たんだ。何を残して来たんだ。こんなことが頭をよぎり悄然とし始めたのは30才も目前に控えた頃である。卒業して5年が経っていた。

何のことはない。周りの皆さんにご迷惑を掛け期待を裏切り、自分は「お陰」で好き放題をさせてもらっていただけ!そう気づくのに多くの時間は要らず、猛反省と自責の念に駆られた。申し訳ない!詫びたい気持ちしか湧いて来ない。

OB活動で恩返しが出来ればと、それからは25年間を自分なりに励んだが55才の時思いがけぬチャンスが巡って来た。体育会としてのテニス部を再建する。その命を受け「テニス部総監督」の責務が与えられたのだ。

この機会こそ現役4年間の汚名を挽回する最後のチャンスと覚悟を決めた。真面目に一生懸命、一心不乱に頑張るしかない……。

お陰さまで「昇格」を男子・女子チーム共に果たすことが出来たが、勿論SPTCと関係各位の支援と応援、温かい思情を頂いての目標達成だった。全力で4年間をやり抜いたことでようやく気持ちも晴れテニス部を真っ当に卒部出来たが、随分と長い時間掛かってしまった。しかし、このお陰で改めて立教テニスファミリーの素晴らしさと温もりを充分に知ることが出来た。今は晴れがましくOB然としてるが、テニス部員であったことOBとして居られることを嬉しく誇りとしている。

今年テニス部は創部100周年を迎える。時代の変化と共に部の変革は不可避だが、変えてはいけないものほど変えやすく、変えるべきものほど変えるのが難しいのがその常である。変わるテニス部であり変わらぬ価値を持ち続けるテニス部であって欲しいと願う。立教テニス部に栄光あれ!

立教とテニスがこれほど好きで大切なものになるとは思っていなかった。昔からダブルスが好きな私だが、愛しい立教テニス部はグッドパートナーとしてこれからも大事にして行きたい。