ある日、電話で・・・ 

提供者: 昭和61年(1986)-大岡史直。 区分: 寄稿文

          
 私は決めていました。大学では体育会に入らず、同好会で楽しくテニスをしようと。中学から始め、高校二年で全国選抜、三年のインターハイでは団体戦ベスト4。やるだけやったような気がしていました。先輩を見ながら覚え、ボールボーイをしながら脚力を養い、切磋琢磨する。そうした中で私が覚えたのは、拾っては打ち返し、又拾っては打ち返すという体力勝負の泥臭いテニス。午後からの試合は日没覚悟、相手の足がつって勝ったことも何度もありました。そのようなテニスに、心のどこかで限界を感じていたのかもしれません。

 同好会に入り、練習に出たり出なかったりのチャラチャラした生活が三か月ほど過ぎた頃、レベルの高い環境でもう一度真剣にテニスと向き合いたいと思うようになり、立教大学庭球部の門を叩きました。本来なら翌春から一年生待遇で入部すべきところ、秋からの入部を許可されたときの喜びは、今も鮮明に覚えています。
 
 大学での思い出は、何といってもリーグ戦。二年の時は2部から3部、三年は3部から2部、四年は2部から3部と、毎年入れ替え戦を経験しました。なかでも思い出深いのが、二年生の日体大との戦いです。4対4で迎えた最終戦、相手の№1は強敵でしたが、主将の藤井さんも一歩も引かず食い下がる。母校を背負って戦う2人の気迫の籠ったプレーの応酬に、ボールボーイをしながら涙が止まりませんでした。素晴らしいゲームへの感嘆と感動、不甲斐ないプレーしかできなかった自分へのやるせなさ…。胸中で渦巻く様々な思いが、涙に繋がったんだと思います。

 大学三年の代交代、主将の藤原さんから自宅に電話がありました。「来期の主将やってみるつもりはあるか」と。咄嗟に疑問が生じました。「なぜ僕が?」。同期には、人望でも人をまとめる能力でも群を抜いている、山田彰彦がいたからです。そこで、その思いを率直にぶつけてみました。すると藤原さんは、「たしかに今のおまえが主将に向いていないことはわかっている。みんなもそう思っているだろう。そういう状況で主将をやるのは大変なことかもしれない。けれど、来年主将をやることは、おまえの人生に必ずプラスになる」と言ってくれたのです。その声からは自分への期待が感じられ、その期待に応えたい反面、「大役が務まるだろうか」「みんなは納得するだろうか」「自分のためになったとしても、部のためになるだろうか」と、次々に疑問も湧いてきました。しばらく自問自答を繰り返した後、口から出た答えは「やらせてください」でした。藤原さんは私を主将にするために、きっと多くの先輩・OBを説得してくれたのだと思います。

 こうして一年間、山田に助けてもらいながら、何とか主将を務めさせてもらいました。結局、三部に降格させてしまいましたが…。あれから30年、あのときの先輩の言葉通りあの一年間は、今も私の人生に大きなプラスになっていると心から感謝しています。