『百年の歴史の一部員として』

提供者: 昭和42年(1967)-倉光哲。 区分: 寄稿文
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昭和42年
倉光哲

 中学、髙校、大学と立教で学びテニスを通じて人間形成をし多くの友人先輩後輩の方々に恵まれました。特に大学テニス部においての4年間は青春の貴重な時間をテニスに明け暮れました。髙校最後の年には幸いにもテニスにおいてなんとか全国のトップになる事が出来この次は立教大学テニス部でという思いに燃えました。

 その当時の大学テニスは春の4月のリーグ戦からスタートし兄が大学4年私が髙校3年の時立教は1部4校の最下位になり2部1位の明治大学と1部残留をかけて入替戦を戦うことになりました。入替戦には私も含め髙校生全部員も大学の応援にかけつけ1部残留の為に必死に応援をしました。しかし結果的には4対5でやぶれ2部に降格が決定しました。最後の4対4でポイントのかかったNO1同しの試合は私の兄の純が出場し目の前で足にケイレンをおこしたこともあり敗けてしまい次年度は2部からのスタートになりました。身内の兄が必死で戦ったにもかかわらず敗北が決まったことと2部で来年スタートということもあり涙が出て止まりませんでした。

 翌年大学テニス部に入部しその年のリーグ戦では2部の1位になり1部の法政大学との入れ替え戦になりました。私は1年生ながらシングルスのNO2で出場することになりキャプテンでNO1の髙橋道男さんとNO2の私がほぼ同時にコートに入りました。そして私にポイントがかかり4年生の韓国のデ杯選手豊川さんとあたり結果的に4セットで私が敗け1部への復帰はなりませんでした。

 翌年再び法政大学との入れ替え戦になり6対3で勝利し1部への復帰を果たすことが出来ました。入替戦前日には3年生の平井先輩の御自宅に選手全員が泊まり、必勝をきし万全の体制を取ったり全員が坊主頭で望んだした結果でした。それだけにその時の思い出も忘れられないことの一つとして残っております。

 又学生時代のこれも忘れることの出来ない事として、4年生最後の全日本学生選手権シングルス決勝戦が有ります。春の1部リーグ戦でNO1シングルスとして全勝し最後のインカレもと必勝の思いで望みました。準決勝は法政の1年下の九鬼油選手でしたが接戦をものにし決勝にのぞみました。相手は慶応の山岸孝君でした。山岸君と私はそれぞれの父親がほぼ同期のデ杯選手であった事がJJR時代からのライバルでもありました。それまでは運よく私の4戦0敗という対戦結果でしたが決勝前夜は緊張の為からほとんど眠れず当日の試合は足のケイレンもあり6-2 6-2 6-2の完敗に終わりました。日ごろから大事な試合の前には眠むれないことが多く最後の大事な一戦で惨敗しました。そんなこともありテニス選手としては大学を卒業を期にやめサラリーマン生活を7年過ごしました。

 その後29才で再び現役選手にカムバックしました。私のテニス人生でのピークが37才時に全日本選手杯シングルス決勝で福井烈選手に5セット敗れたり又42才時に関東オープンシングルス決勝で白石正三選手に勝ち優勝したことなど息のながい選手として過す事が出来ました。これは今から思えば大学1年の春のリーグ戦前の練習で午前にダブルス5セットフル合計15セットを連日こなしていたことを思い出します。そのうえ一年生ですからそれ以外はたえずボールボーイ、さらに暗くなってから全員でのランニングです。まさに極限に近い猛練習の日々を体験しました。この貴重な経験が47才まで一般男子で全日本選手杯本線シングルスに出場しながい間現役選手として活躍出来たことも含め立教テニスのおかげでと深く感謝しております。

最後に後輩の人達にはたえず先手をうちふりまわされる前に相手をふりまわすテニスをしてもらいたいと切に希望致します。