「 オール立教テニ ス 」百周年おめでと うございます

提供者: 昭和41年(1966)-大田洋一。 年度: 昭和41年(1966)。 区分: 寄稿文

 
 昭和四十一年卒業の大田です。卒業から四半世紀余り経ち、百年記念の特集に何を寄稿すれば良いものか悩んで居りましたが、何か書かねばとの思いに至りました。多分、「帯に短し、たすきに長し。」の文章になると思いますが、それはご容赦をお願い致します。

 私の入学したのは昭和三十七年です。皆様ご存じのように、その頃のリーグは一部四校制でした。そして一部校は確か、早稲田・慶鷹・明治・立教で、立教は一部校だったのです。しかしその年二部に転落。大学に入り、今までの坊主を長髪にしようと思って伸ばしかけた髪の毛を又、坊主頭にした時の複雑な気持ちは憶えていますが、次の年すぐに一部に返り咲き、めでたく長髪(スポーツ刈り)となりました。

 今、名簿に載っている同期は七名ですが、最初は十名で、木口・川口・深尾・稲葉・赤井・神部(平井)・大田と薄(うすき・故人)・中(なか)・石黒でした。

 練習は授業の後急いで池袋から上板橋のコートへ直行し午後三時~日没まで(一年生は練習前後のコート整備を含む)でしたが、いざ練習が始まるとレギュラー級以外の一年生は、ボールボーイでしたので多くの一年生は練習前(早く行って練習をし、練習開始迄にコート整備を終える。)と練習後(照明が無いので見え難い中、音を頼りに・・・と云うこともあった。)

 リーグ戦はシングルス6ポイント、ダブルス3ポイントの9ポイントで争い5ポイント以上取った方の勝ち。しかし、さすが一部校。シングルスの1~4はオールジャパン資格それ以下はインカレ資格と、我々大学からテニス(硬式)を始めた者にとって、レギュラーになることなどとても叶いませんでした。しかし、オールジャパンクラスのテニスを毎日練習で見られる事は素晴らしく、私も頑張った甲斐があり、卒業する迄に関東学生・インカレの大会に出場することができました。

 その他、想い出に残っているのは、①関東オープントーナメントで柳恵誌郎選手からワンセット取ったこと(会場が東伏見のクラブハウス前のコートで、クラブハウスから藤沢先輩に応援してもらった事。)②大学で初めての仙台合宿。③2回程(松本・服部緑地)女子部の合宿にコーチの応援で行った事。④女子部コーチであった、稲葉君と跡見学園女子テニス部の創部の時コート整備から教えに行った事。⑤テニスとは関係ないが、体育祭のマラソンで優勝した事。⑤社会人になり東京で勤務していた或る目、会社へ知らない女性が私を名指しで訪ねて来たときはピックリ、そして、ドキドキでした。後で立教の男子テニス部のマネージャーだと聞き二度、ピックリ、時代の流れを感じました。(我々の頃のテニスは、体育会は一つでしたが、学校や男女が入り乱れていた同好会が多かったので、男子部か女子部かを確かめたのを憶えています。)⑦同期で行った伊豆の下田への卒業旅行など、懐かしく思い出します。

 いろいろと思い付くままに述べさせて戴きましたが、永い一生涯の内のたかだか四年間、一所懸命に過ごした記憶があるのは自身の誇りであり、その時からの友人は「宝」です。現役からOBまで[オール立教テニス]を掲げる仲間であり、家族なのです。これからも生涯、生きている限り関わって行きたいものです。堅苦しく考えないで、関わるのは出来るだけでいいのですから・・・・

以上