「裏方としてのテニス部人生」

提供者: 昭和42年(1967)-出口誠之。 区分: 寄稿文

 
 私がテニスを始めたきっかけは、中学校入学後の部活選択の時でした。
 私は、小学校の頃は野球少年でした。当然中学の部活も野球を選択することに決めていました。
クラスの席の配置が決まり、部活選択の書類を提出する準備をして登校したところ、前の席にいた倉光君から、昼休みにテニスを見に行かないかと誘われました。
 私のテニス人生は、ここから始まりました。
 中学のテニス部では、倉光君にはどうしても勝てませんでしたが、3年生の時には、部内大会で2位になり高校進学後もテニスをしていこうと決めるきっかけに成ったと思っています。
 大学に進学し、当然体育会庭球部に入部しました。早々春の合宿が大学テニス部の始まりでした。大阪服部緑地の合宿でしたが、無我夢中で参加し、走り回りそのままリーグ戦が始まりました。2年になり個人戦で勝てば関東学生資格なる試合で負けてしまい、マネージャーの補佐をする事に成りました。
 当時は、部の運営費用は、現役が殆ど管理しており、OB会費、部費、大学からの援助費等で賄って居ました。部の年間収支を見るとかなりの赤字運営状態でした。
 そこで、少しでも赤字を解消しようと思い、いくつかのイベントを企画し、実施する準備を始めました。ダンスパディー,音楽会、映画会等娯楽的なものが候補にあがり、安価で、集客できる企画を検討することにしました。一番に挙がったのが、映画会でした。
 タッカーホールを借り切り、映画会社に行き映画フィルムを借り放映し、入場料で収入を得ようと企画しました。結果的には、大きな収入にはなりませんでした。
 次に挙がったのが音楽会でした。どのような音楽会を催すかいろいろ検討した結果、当時の六大学各校の代表するバンドを集めて、「六大学ジャズフェスティバル」の開催を企画することにしました。
 まず、会場をいろいろ検討した結果、日比谷の野外音楽堂と決め、開催日時は気象庁の過去の天気を調べ、数年間雨が降らなかった日を選びました。
 次に、各大学の軽音楽部に赴き当時各大学で代表的なバンドに出演依頼をし、出演の確約を取り付けました。
立教はデキシーキャンパス、明治のマンドリンクラブ、法政のカントリーウェスタン、早稲田のジャズオーケストラ、東大のハーモニカソサイティ、慶応のジャズバンドと、当時のアマチアバンドとして、プロのバンドに引けを取らないグループでした。
 開催日は7月2日(金)午後6時から9時。
 入場券は1枚500円で2,000枚の販売目標。各先輩には、最低10枚をお願いすることにしました。当時は約200人のOBが在籍していました。
 またテニス部員全員で、学内の学生に、街に出ては一般の学生にと入場券を販売し、当初の予定を上回る枚数を販売することが出来ました。
 7月2日の当日は、予定通り天気も良く会場も満員になり、この企画は大成功に終わりました。
 結果的には、映画会、音楽会での収入で、部の赤字はほぼ無くなったと思います。
 以上、当時を振り返り、テニス部にはテニスでの貢献はできませんでしたが、裏方として、少しは貢献できたと思っております。
                           昭和42年3月卒 出口 誠之