「神学院コート」

提供者: 平成2年(1990)-山田昇。 区分: 寄稿文

 
 創部100年という記念すべき“瞬間”を、「歴史」と「伝統」に包まれ、そして何よりも素晴らしい「先輩」と「後輩」に囲まれて迎えられる事に、心より感謝し、また幸せな気持ちでおります。

 私が一番思い出にあるのは、「神学院コート」です。もちろん大学時代に一番汗を流した「富士見」も思い入れはあります。でも、私にとっては、今は無くなってしまった、池袋中学のコートの裏にあった「神学院コート」に、色々な思い出が詰まっています。我々の時代は、基本的に、女子部(我々の時は男子部、女子部)が使用するコートでした。

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<筆者2年時 練習前、神学院コート前で余裕(?)の1枚。筆者 白寄誠爾 東樹秀明 柳内崇>

 「神学院コート」と私の出会いは、私が小学6年生の時です。11月23日の合同練習会。私は心躍らせて、その練習会に初めて中学の敷地に足を踏み入れました。
 
 私のお目当ては、当時「スマッシュ」に載っていた立教の先輩です。倉光さん、鷲田さん、庄野さん、藤井さん、藤原さん。どの人かな?キョロキョロ探しました。
 
 立教中学の体育教官室前(のちに、そこが西村先生の居る場所だと知りましたが)コートに集合し、大学生らしき人が打っているのを、眺めていました。
 
 遠くの方で、(そうです、神学院コートで)Wilsonのベストを着ている人が、何球も何球もミスしないで永遠に続くラリーをしていて、それをずっと見ていたのを覚えてます。
 
 それが、庄野さんと藤井さんだったと、これもあとで知ります。その日に、雨が降り、中学の体育館で、小西さんに打って(実際は3球とも空振り)頂いたのも、鮮明に覚えています。

 私は中学に進学し、ボールボーイをしながらも、なるべく中学の1・2面の球拾いになるように頑張って部内ランキングを上げました。神学院でたまに練習をされていた、庄野さんや藤井さん、藤原さんや、沢井さん、笠原さん、大井さんらの練習を盗み見していました。たまに、2学年上の新谷さんがボールを神学院の方へ打ち込む(わざとです。。。)と、それを取りに行ったのも覚えています。

 中学3年生の時には、藤井さんや沢井さん、笠原さんが、わざわざ中学の練習に良く来てくださり、その頃になると、女子部の存在にも気づきはじめ、中学の1面脇の建物で、着替えて出てくる女子大生によそ見をしたものです。
 
 そして、中学3年生の都中学で後輩の多田に負けて、悔しくて一人「神学院」のコート前の木のベンチで、泣いたかな?中学卒業と同時に、いったん池袋とはお別れしました。(当時は池袋高校がなく)

 大学1年生で「新学院」と再会を果たしました。大学時代は、早朝6時に新学院に潜り込み、8時まで練習して、授業の合間も練習し、学食で腹ごしらえをして「富士見」へ移動。(授業はご想像にお任せします)そんな事を3年半続けてました。ほぼ毎日と言って良いほど、1日の始まりは「神学院」でした。関東学生の予選が各大学コートで終わると、「神学院」に集結して練習したり、一人でサービス練習したり。

 そうそう、卒業後の何年後かに、荒木君や村木、五味との出会いも合同練習会での「神学院」だったと思います。コーチ時代には、阿部(宏)と、2時間くらいずっと「突き上げ」やったかな?村木を怒鳴って泣かしたのも、「神学院」でしたね。
女子部の練習に参加して、生ぬるいボール缶の水を飲まされた(ごめんなさい)まずい記憶も「神学院」ですね。

 今、形は残念ながら無くなってしまいましたが、「神学院」は、心にずっと残っています。
 
 なぜか、「神学院」で練習すると不調から脱し、ずっと集中して練習できる場所でした。

 ありがとう!!「神学院コート」