「富士見とリーグ戦」

提供者: 平成19年(2007)-阿部研人。 区分: 寄稿文

 
 私は立教大学体育会テニス部100年の中のたった4年間を経験したまでだが、思い返すと大小様々なエピソードがあった。今回は2つだけご紹介したい。

①富士見
 福岡から上京し立教大学に入学、テニス部の門を叩いた。最初の練習場所は「富士見グラウンド」。その名のとおり、空気が乾燥し晴天に恵まれた冬場は富士山が綺麗に見えるらしい。確かにその場所は、よく乾燥していた。広大な敷地の中で、当時、県道にもっとも近い位置にあったクレーコートには頻繁に砂埃が舞っていた。気候と立地のためかコート整備に相当悩まされた。「このグラウンドの近くに巨大なラクダが生息している」との噂があったり変な生物もいたりで、やはりここは昔、砂漠か何かだったのかと自分を納得させた。コートを正常に保つため、あるときは土木作業員に、またあるときは草刈り職人や水撒き職人と化した我々。電動ローラーの故障はしょっちゅうだし、暑さや寒さを凌ぐ場所もないし、トイレからは謎の泡が出てくる。コート整備のため早朝の開門時間前に入り管理人に叱られたり、整備が不十分で先輩に怒られたりと、とにかくテニスをする以前の問題だった。やっとテニスができる状態になってもそのコートのイレギュラーの数は尋常ではないし、ここは日本なのか、そしてホームコートなのか何度も疑った。しかしこの場所で仲間と一緒に馬鹿になってコート整備部として過ごしていくと、逆にテニスができることへの純粋な喜びを引き起こし、我々はテニス部員だったと我に返る。やっぱり富士見はホームコートだ。

②リーグ戦
 それは2年生のリーグ戦第二戦某国立大戦の出来事。私はコートレフェリーとして戦況を見つめていた。幾度となくゲームは中断され、コートに呼び出された。理由は明らかだった。相手審判がことごとく自チームに有利な判定を下すのだ。クレーコートの割にボール跡も付きづらく選手の主張もなかなか通らない。2年生主体の選手たちは、ミスジャッジへの不満とロブばかり上げる極端な守備体系になかなか対応できず、徐々に調子を崩しダブルス1-2の苦しい展開。途中、武市コーチが退場になるなどより重苦しい雰囲気となった。シングルスが始まっても不可解判定は続いたが、選手を目覚めさせてくれたのは何よりも応援の声だった。徐々にヒートアップする立教応援陣の中で、私が立っていた相手サイドからもひと際目立ったのはOBの山下先輩、伊藤先輩、藤原先輩で、あまりの剣幕・威圧感に相手校がビビってしまったのか、応援エリアを限定するよう要求してきた。学連と話し合いの結果、仕方なく応援エリアに白線を引かざるを得なくなり、大変心苦しかった。しかし、その後も白線内ぎりぎりで今まで以上に熱い声援(NGワードを発しないよう細心の注意を払いながら)を送っていただき、選手は調子を取り戻していった。「テニス、応援で勝とう。」を合言葉に最後は同期の鏑木がファイナルセットを制し、チームは5-4で勝利できた。この年3部昇格は叶わなかったが、サポート・OBOGが一丸となり選手を応援する「チーム立教」の熱さを象徴する試合となった。

 その他個人的に色々な失敗、多くの方へご迷惑をかけ反省しきりだが、そのことはまた別の機会に取っておく。最後に、立教大学体育会テニス部の101年目からさらなる繁栄のため、今後も微力ながらサポートしていきたい。