私のテニス人生

提供者: 昭和33年(1958)-川上岳。 区分: 寄稿文

 
 東京生まれの私が今はまったく縁の無かった信州の森の中(軽井沢)に住んでいます。
歳のせいか最近自分の過ごしてきた人生について想い返すことがあり、それはあまりにもテニスそして立教という世界の中にどっぷり浸かって過ごして来たかを感じざるを得ません。そんなお話しをしたいと思います。

 立教中学校に合格しテニス部に入って以来大学までの10年間は勉強したと言う記憶より、テニスコートの方が思い出多い生活をしていました。

 其の間の戦績は高3の時国体の東京都代表選手になったこと大3でインカレに出場できたこと大4でオールジャパン、インカレに出たくらいで本当の一流選手にはなれませんでした。大学での部活動の想いは当時コーチをして下さっていた倉光安峰氏(元デ杯選手、倉光哲会長の父君)はベースラインから1メートル以上下がってはいけない、常に相手にプレッシャーをかけるようにとたびたび注意されたことを思い出します。

 さて、大学も4年生となり「これでテニス三昧も終わり」と思っておりましたところ、遠征先に先輩から電話で、ある金融会社がテニスの実業団を作ることになっていて、そこを受けないかとの話でありました。結果として一番早く決まったのがそこで、なんとしばらくしてサンフランシスコ支店に転勤することになったのです。この時ほど勉強しておけばよかったのにと思ったことはありません。

 まあ仕事の話は別として当時テニスの主流選手はアメリカ、オストラリヤでしたから、その理由を探りたくなってアメリカの学校やテニスクラブに行ってみたのです。そこでは驚くべき経験をすることになりました。それは、「楽しいから上手になりたい」と言う欧米のスポーツクラブをベースに成立しているスポーツと義務教育の中に取り込まれた日本の体育は異質とさえ言える違いがあったのです。そこで帰国後友人達に事あるごとにこれからの日本のスポーツは変わらないといけないと言い続けていました。

そのような時に当時日本を代表していた石黒 修、渡辺 功氏らはウインブルドンがオープン化されプロも出場できるようになったことから日本もプロが活躍できるようにすべきである、との行動を起こし、その初代事務局長をやってくれないかとの依頼があったのです。そして日本橋に(社)「日本プロテニス協会」が発足し、その初代事務局長に専務理事として引き受けることにしました。

 ここでいくら昔話や自慢話をしても面白くないので、なぜ縁の無かった軽井沢に住み、今何をしているかをお伝えして終わりにしようかと思います。

 初めて軽井沢に行ったのはジュニアの時「輕トー」と言う歴史のあるトーナメントに出場しいっぺんで町が好きになり、必死になって40年ほど前に山小屋ふうな家を建て、遂に17年ほど前町民になってしまいました。そして私の悪い癖“思い込んだら人にしゃべる”がまたぶり返し、町長に面談、スポーツの重要性を説き、「スポーツで町起こし」を進言したのです。

 又偶然ではありましたが我が国の「スポーツ基本法」が50年振りに改正され、日本に欧米式の地域スポーツクラブを育成すると言う大転換を図ったことと重なり、NPO法人「スポーツコミュニテイー軽井沢クラブ」を立ち上げ、地域住民のためのスポーツクラブを作ったのです。そして、今や町が約80億円掛けて作った風越運動公園の施設運営を受託し年間約27万人の人たちを受け入れています。

 考えてみると、父親に買ってもらったラケット一本が今でも私が町の行政にまで関わり続けていることは立教の校風と先輩、友人のお蔭でありまして、希有なスポーツ人生を送っていることに深い感謝をしている次第です。

 さて最後に今年100周年を迎えた立教テニスを私は誇りに思いますが、その戦績にはがっかりします。そして何か萎縮して部活を送っているように見受けられます。

 そこで一つの提案ですが何年ケ計画を立て、将来立教を背負って立つようなタレントプレーヤーのジュニアを探し出し“交流”をしたり“教え”に行ったりして立教大学テニス部の新しい基礎固めもしてみては如何でしょう。学生時代広く色々な経験をするということは貴重なことです。

大学に入ってからでは遅いのです。 皆さんの巾広い活躍を期待しています。

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{写真説明}
50年ほど前の私です。当時はこんなフォームで打っていたのです。