立教大学卒業30年を振り返って

  
 昭和58年4月、地方の広島から上京し、期待と緊張感をもって立教大学の入学式に出席した。
 
 今でもたくさんのサークルや体育系、文科系クラブが集う「4丁目」の当時の華やかな雰囲気を忘れることはできない。
 そのような中で、私は何故か体育会テニス部を訪ねようとしていた。中学、高校時代テニスに取り組んだとは言え、特に優れた戦績もなく、自信のかけらも無かったはずの自分が入部を考えたのは、当時高校時代の先輩方が関東で活躍されている一方で、自分の不甲斐ないこれまでの結果に納得がいかず、もう一度真面目にやってみようと思ったことがきっかけだったと思う。
 
 しかしながら、入部してみれば、先輩、同期もレベルが高く、練習も志木コートの3、4番コート中心となり、とても居場所がないことを悟った。授業や第一学食へ行くと、同好会へ入った同級生達の楽しそうな雰囲気を見て、間違いだったかと後悔もした。
 
 いつか退部する時が来ると思いながら、何故か続けていき、後輩を迎えることになった。自分なりに1年間上手くなりたいと努力してきたつもりだったが、元々力むクセと精神的な脆さが克服できず結果は出ていなかった。
 
 ダブルスでペアを組んでくれた柴原君、折田君、新谷君には本当に迷惑をかけてしまった。特に柴原君と出た2年目最初の関東学生予選で、学習院ペアに私のミスが重なり負けてしまったが、柴原君に「今まで彼らに負けたこともない。恥ですよ。」と言われた時はとても辛かったことを記憶している。
 
 こうした経験も刺激になり、2年、3年と同期の連中の助けも借りながら練習し、最終学年では本当にありがたいことにリーグ戦に出場させていただいた。
 
 1年生で入部し、リーグ戦のボールボーイをしながら「いつか自分もリーグ戦のコートに立ちたい。」と思ってがんばってきたので、本当に嬉しかった。
 
 一方、現実はとても厳しく、なかなか結果が出ず、チームに貢献できない自分にとても情けない思いをし、応援に来ていただいたOBの皆さんにも申し訳なく思ったことを今でも思い出す。
 
 このように「戦績」では残念な結果に終わり、入部時の思いを成し遂げることはできなかったが、テニス以外のコミュニケーションも大変貴い経験となった。
 
 特別に良い思い出ばかりではないが、雨が降ると練習中止となり、先輩、同期、後輩と雀荘タイカにいつも直行していた。美人の奥さんが出すカレーが夕食になることが多かった。下手くそな学生麻雀だったが、卓を囲むと各々の性格がよく分かり、今思うと充実したコミュニケーションの場だったと思っている。
 
 また、部内の飲みではよく飲まされ、よく吐き、よく潰れた。広島から持参した学ランも駄目にしてしまった。今でも思い出すのは、1年生の時、先輩から刺身の器を最初に空けるよう言われ、空けた瞬間3種類のアルコールが一度に注がれた。何度か繰り返された後の記憶は全く残っていない。
 
 加えて、こんなつらい時だからこそ同期の支えあう気持ちは強くなった。店のトイレやロサ会館の前で倒れてしまっても、必ず誰かが介抱し、誰かの下宿に必ず連れて帰っていた。私は椎名町に住んでいたため、飲みの翌日は誰かが横で寝ていることが多かった。不思議な光景だが、良い思い出である。
 
 一方で残念なことと言えば、同期の春日君、先輩の川本さんが若くして他界されたことである。春日君は在学中の急なことで、何か実感もないまま逝ってしまった印象が残っている。
 
 また、川本さんは社会人になって間もない頃で、広島からお見舞いに伺ったのが最後になってしまった。同郷の先輩でとてもお世話になったので、大変寂しい思いをしたことを思い出す。お二人のご冥福をお祈りしたい。
 
 これまで取り留めのないことを申し上げてきたが、今でも体育会硬式テニス部の一員であることを心から誇りに思うし、そこでの経験が社会人生活30年を支えてくれたと感謝している。
 
 学生時代から、規律の重要さ、チームワーク、そして「結果」に強くこだわる精神力など、今でもその「魂」は生きているし、辛い時に自分を奮い立たせるエネルギーになっている。
 
 そしてこれから入部される未来の部員の方々が硬式テニス部の新たな歴史を創っていかれると思うが、自分の軸になるものを4年間で掴み、今後の人生に活かしていかれることを心から願っている。
  
 最後に、立教大学硬式テニス部100周年に心からお祝いを申し上げるとともに、OBの一人として将来の発展に微力ながら努力していきたいと思っている。