昭和6年(1932)-北原静彦さんインタビュー

提供者: 昭和06年(1931)-北原静彦。 区分: 寄稿文

 

テニス部OBの中で最長老、昭和六年(一九三一年)卒業の北原静彦様(満九七歳)を神奈川県海老名市の特別養護老人ホームさつきに、近くにお住いのご長男北原一彦様ご夫妻にご案内いただきお尋ねした。「車椅子は嫌いだ」と杖代りに歩行補助具を押しながら三階ロビーに出てこられ、ご高齢を考慮して一時間程の予定のところ大変ご機嫌で大幅に超過し二時間余に渡って、昭和初期の大学の様子、庭球部の状況など貴重な話をいろいろ聞かせていただいた。帰り際には老人ホームの玄関まで見送ってくださって大感激のひと時であった。

・訪問日 平成十七年(二〇〇五年)五月十二日

・訪問者 橋本幸雄(昭和25/12卒)

岸本駿二(昭和27年卒)

◎ご出身は、立教大学へは。

明治四十年(一九〇七年)十一月二日東京都小石川区(現文京区)原町、小石川植物園の門の直ぐ前の所で生まれ育った。中学は目白中学。大正十五年(一九二六年)四月に立教大学に入学した。当時は予科二年、学部三年の五年制で学部は商学部経済学科だった。

(注)当時の学部・学科は

文学部・・・宗教学科・英文科・史学科

商学部・・・商学科・経済学科

 

◎通学はどの様なルートで。

市電(後の都電、今は廃線)で巣鴨に出て省線(JR)で池袋へ、池袋西口を出ると直ぐ左側に豊島師範学校があって、その塀沿いに。今のようにビルなど高い建物は無く、大学の周辺には樹木が繁ったお屋敷、畑もあって田舎だった。途中「ナポリ」という喫茶店があって可愛いゝ女の子がいたよ。

 

◎当時の大学の建物は。

立教が築地から池袋に移転(大正七年、一九一八年)して未だ八年しか経っていなかったので最初に建てられたレンガ造りの建物だけだった。今もかなり残っているのではないかな。校門を入って正面に時計塔のある校舎、右側にチャペル、左側に教員室図書館の建物、一番奥に学食、その手前左右に東寮・西寮二棟の寄宿舎、それと体育館、それだけだったかな。学生数も少なく(昭和六年卒は文学部二十八名商学部一二〇名計一四八名)それで十分だった。キャンパスの中には、ほかに立教理科専門学校(現理学部)、中学校の校舎、それに校友会館と外国人教授が居住するエキゾチックな一戸建が何戸かあった。

 

◎テニスは何時、何処で始めたのです。

目白中学で軟式をやった。当時中学校で硬式をやっているところは未だ無かった筈だ。立教に入学し庭球部に入部して初めて硬式テニスに出合った。

 

◎当時の庭球部の状況は。

テニスコートは現在タッカーホールが建っている場所に四面。庭球部長は斉藤茂教授(初代部長)で、翌年予科二年の秋頃に河西太一郎教授に代った。河西先生は戦後も暫く部長をされておられたから随分長かったね。

(注)庭球部長 初代 斉藤茂教授(一九一八—二七)

二代目 河西太一郎教授(一九二七—)

予科二年、満州遠征の時のキャンプテン(C)は平沢雅夫さん、マネージャー(M)が徳永多二夫さんで、そのあと中島弘C、僕等の時は松尾勝巳C、青木芳樹Mだった。そのほかは忘れたよ。

コート整備は部員がローラーを引き、ラインは箒ではいて石炭を水で溶いてわらを束ねたハケで書いて、皆一生懸命だった。ラケットはフタバヤのほかに、小さな会社だったが高い技術の長谷(人形町)というのがあって、それらを使っていた。勿論ウッド製でガットはシープのみ、ボールはその頃には国産があったよ。

 

◎どのようにしてテニス技術を修得されたのですか。

上級生も経験者は皆軟式からの転向組で、厚いグリップで軟式のようにフォア・バックともラケットの同じ面を使う打ち方の人もいた。自分も最初軟式と同じ打ち方でやったが、どうも上手くいかないので早い段階で薄いグリップに変えたんだ。藤沢陽蔵君が本格的な硬式の打ち方で強かった。藤沢君に教えてもらって随分練習したよ。その頃米国人のマケックニー教授がよくテニスをしに来ていたが教えてもらう程の腕前ではなかったな。

◎部活動で最も記憶に残っていることは。

昭和二年(一九二七年)予科二年の夏に立教大学庭球部が単独で満州(現在の中国東北部)に遠征した。その時予科二年で松尾君・藤沢君と一緒にメンバーに選ばれて参加出来たのだ。前田部長代理・徳永マネージャーと選手は平沢キャプテンほか九名、総勢十二名。東京駅では大きな校旗を掲げた留守部員や学校関係者・家族が大勢・盛大に見送ってくれた。神戸港で香港丸に乗船して満州の大連に渡った。大連を皮切りに長春・ハルピン・奉天そして天津・北京と一ヶ月余りの大遠征だった。

満州鉄道(満鉄)に野球部OBが三人程いていろいろと手配・世話をしてくれた。いく先き先きで在留邦人の大歓迎を受け、ご馳走になったよ。珍らしいものも随分食べさせてもらった。特にハルピンでは天羽英二総領事から立派な官邸に招かれて盛大な歓迎会を催してもらった。天羽さんは戦時中には情報局長をされた立派な方でね。

テニスの試合は各地で満鉄、三井物産、日本商社の在留邦人や日本企業に勤める満人などのチームと対戦した。ハルピンは国際色豊かな都市でロシヤ人。イギリス人も出てきて可成り強いのもいた。厳しい試合もあったが、確かチームとして全勝だったと思う。

テニスの試合の合間に市内見物・名所見物をさせてもらった。メンバーの中で予科二年の三人が一番下級生だったが辛いことは何もなかった。遠征費用は学校から出ていたが小遣が途中で不足して家から為替で送ってもらったりした。徳永Mは随分苦労されたと思うが楽しい遠征だった。

(注)満州遠征メンバー 12名

・前田部長代理(斉藤部長辞任、後任部長決定までの暫定)

(学部三年)平沢雅夫C・徳永多二夫M・中島(岡里)三郎・香月祐光

(学部二年)中島弘・橋本栄二・森清一

(学部一年)清水忠雄

(予科二年)松尾勝巳・北原静彦・藤沢陽蔵

 

◎同志社との定期戦もその頃始ったのでは。

当時は現在のようなリーグ戦は未だなくて、相手校を見付けての対抗戦がし愛の主流だった。あとは関東学生・東日トーナメント・関東選手権そして全日本選手権といった個人戦だった。同志社とは同じキリスト教系の学校ということで対抗戦をやることになったと思う。昭和三年(一九二八年)学部一年の九月に京都へ行って初めて同志社と対抗戦をやったが、その後毎年東京と京都と交互にやるようになって定期戦の形となった。同志社戦の第一回から第三回までの三回ダブルス・シングルスとも出場したが勝敗は憶えていないな。同志社とはいつも接戦だったと思う。

(注)同志社戦第一回—第三回

・第一回(昭和三年九月 同志社コート)

立教5(複2−1 単3−3)4同志社

・第二回(昭和四年 立教コート)

記録不明

・第三回(昭和五年九月 同志社コート)

立教5(複2−1 単3−3)4同志社

 

◎そのほか学生時代で憶えておられることは。

試合のことなど忘れたね。ダブルスは殆んど同期で佐賀県出身、サウスポーの松尾君と組んでいた。藤沢陽蔵君は強かったな、藤沢兄弟で鳴らしていた(弟さんは立教ではない)陽蔵君は全日本学生で決勝まで進んでいた。

(注)藤沢陽蔵さんは昭和四年第一回全日本学生選手権の決勝で上原(関学)に敗れ準優勝。

 

◎卒業されてからは。

昭和六年(一九三一年)三月に卒業、明治生命に入社した。テニスは明治生命高井戸コートや友人の川妻多さんの自宅コート、時々大学のコートへ言って現役をやったよ。昭和十七年(一九四二年)大東亜戦争(第二次世界大戦)の応召介状がきて出征、支那(中国)南部の雷州半島に行った。激しい戦斗状態ではなかったが時々支那軍が撃ってきていた。その後海南島にいた時に終戦になって翌昭和二十一年に浦賀(三浦半島)に帰ってきた。小石川の家は戦火で焼けてしまっていて、学生時代の、殊に満州遠征の時の写真など殆んど焼失してしまって、それが残っていれば思い出せることも多かっただらうに残念だ。復員して大学に行ったらテニスコートが移転していた。(コートは戦後直ぐに現在の立教小学校のところに。更に昭和二十三年春に理科専(理学部)南側に移転)

戦後は最初石川源一郎君(昭和十年卒)がやっていた豊岡物産に勤め、四年程して明治生命に復職した。テニスは会社のコートや藤沢陽蔵君がいた東伏見テニスクラブでやっていた。大学のコートへも同期の藤沢君や小宮山知弥君達とよく行って現役に相手してもらったよ。その後は主に桜台テニスクラブで十年程前までやっていた。

(注)当日、橋本幸雄さんが昭和二十年台の写真を持参、中に昭和23年9月立教コートに全日本優勝の中の選手を招き中野・北原組対橋本・飯塚(現役組)で模範試合を行ったときの写真を見て“あっ中野文照、法政出身で全日本で優勝したな、なつかしいね”とはっきり記憶しておられるのには驚かされた。

<二〇〇五年五月 岸本記>