遥か鹿児島の地より創部100周年に寄せて

 
昭和19年3月卒
二之宮 景正 (S18/12 学徒出陣)

 昭和13年(1938年)4月立教大学予科に入学しました。当時の学校制は、立教の様な私立大学は予科3年・学部3年計6年間、国立大学へは、国立(私立)高等学校の3年から国立大学を受験、入学して3年間でした。

 立教大学は、文学部(宗教学科・哲学科・英文科・史学科)経済学部(商学科・経済学科)の2学部6学科で、学生数は1学年が約250人位でしたから、予科・学部合わせて1500人ほど。大学は池袋だけで、学生は必ず制帽・制服着用、予科は丸帽(蛇腹が巻いてある)、学部は角帽(現在の制帽と同じ)。制服上着の詰襟に学年毎のバッチと運動部のバッチを付けていましたので、何学年の何学部か、どの運動部の所属か直ぐ判りました。運動部は総て体育会(同好会は無い)で、全学生約1500人の三分の一ほどが部に所属し、それぞれ活躍していました。
 
 庭球部は部員約40人で予科・学部ほぼ半々。庭球部員専用の寮(椎名町寮)が大学から目白の方に歩いて15分程の所に在り、2階建で、1階に食堂・浴室・炊事場・管理人部屋(管理人は中年夫婦)と若干の個室、2階は全部個室で、個室は1・2階合わせて20室ほどでした。地方からの部員が1人1室に入っていて、管理人が朝夕の食事を提供していました。その寮は夏合宿には全員で利用しました。

 昭和16年日米開戦で食料が統制になったため、已む無く寮は廃止となり、寮に入っていた部員は借間やアパートなどに移り、食事は国から支給された食料切符で外食券食堂で食べるようになりました。

 テニスコートはクレー4面(現在のタッカーホールの場所)、コート整備は予科部員の担当で、午前の授業の合間や昼休みにT字刷毛棒でならし、ローラーをかけ、ラインを石灰で引くなどのコート整備を済ませていました。

 練習は、学部の部員は午前中授業を終え、昼食後着替えてコートに。予科の部員は午後の授業に出て3時頃から着替えてコートに行き、レギュラーが奥のコート2面、その他は道路側の2面を使って練習しました。練習や試合着は帽子・シャツ・ズボン・テニスシューズ総て白で、色物は駄目でした。これは立教だけのことでは無く、世界中の男子も女子もセーターは別としてテニスウエアーは白と決まっていました。

  ボールも白だけ。ラケットはフタバヤ製、週に1度ぐらい担当者がコートに来ていましたので、その時注文したり、切れたシープのガットをその場で継ぎ張りして貰っていました。

 当時は六大学野球が大人気(プロ野球は始まったばかり)の時代、放送はラジオのみで、神宮球場に大勢の人が入場料を払って見に来ていましたので、六大学野球連盟は入場料収入から必要経費を差し引いた残りを各大学に分配、大学はそれを各運動部に分配してくれていました。庭球部ではボールを購入するなど部活動の貴重な資金となっていたのです。

リーグ戦は1部;慶応・早稲田・明治・東大の4校
     2部;立教・法政 ほか2校の4校
で立教と法政が、大体交互に2部優勝し、1部4位の東大と入替え戦をするも、いつも惜敗して2部残留となっていました。

 トーナメントでは関東大会で一度だけ川島一郎(S16年卒)吉田(予科3年で陸軍入隊)ペアがダブルス準優勝を果たしたのが当時の主な記録です。

 定期対抗戦としては毎年、明治および同志社とで、隔年相手コートに行って試合をしていました。

 立教のデ杯選手(候補)としては、木谷(植垣)正夫さん(S16/12卒)露木陸爾さん(S17/3卒)で、慶応;隈丸・藤倉、早稲田;木村・鷲見、法政;中野、関西では小寺など記憶しています。昭和14年日本は支那事変のためデ杯戦参加を取り止めましたが、フィリピンのアンポン・サンチェス両デ杯選手を招いて田園コロシアム(当時は珍しいアンツーカーコート)で歓迎試合が行われました。観戦しましたが単複とも日本は勝てなかったことも覚えています。

 全英選手権(ウインブルドン)シングルス決勝で世界NO1のチルデン(米)に惜敗された清水善造氏の息子が庭球部に入部(4・5年下)、その縁で清水善造氏が大学に来られレギュラーに混ってダブルスをされました。既に50歳位でしたが素晴らしいプレーを披露されると言うこともありました。

 庭球部長は河西太一郎経済学部長で学校内で力を持って居られ、有望な中学生をスカウトし予科に入学させて頂けたし、学科試験の時も答案用紙に庭球部員と書くと「優」を付けて頂き大変有難かったです。

 当時、大学予科受験の申込書には、希望学部と第二外国語(英語は必修)としてドイツ語・フランス語・中国語から1つを選択して記入、試験は同一問題で行われていました。私は予科の第二外国語はフランス語を選択、著名な仏文学者河盛好蔵氏の軽妙洒脱な講義を受けました。

 英語は、大学構内にアメリカ人教授とその家族が居住していましたが、日本人の教授が教えており。体操は、アメリカ人先生が体育館で徒手体操やバスケット・ボールを英語で教えていて、遅刻すると「ゲダウ!」と追い出されたりしました。(アメリカ人の先生・家族は日米開戦で帰国)

 予科の授業は、1人1机で、第1時間目に教授が出席を取っていました。黒板に向かっている間に後ろの出入り口から忍び出たりしましたが、見回って居る学生監に見付かって教室に戻されることも。学部の授業は学部別に大教室に大勢が(席は自由)一緒に教授の講義を聞く形式で、出席を取ったあと教室を抜け出したり、午後は友達に代返を頼んだり、と言うこともありました。

 成績の点数は、出席と試験とが半々で、出席点は第1時間目に出ると2点、その後は1点とのことの様でした。

 当時は軍事教練が月に1度あり、その時は茶黄色の服に着替え(予科は教室1階に在る各人のロッカーで、学部は部室で)各学校に配属されていた配属将校(陸軍から退役士官1人、下士官2~3人が配属されていた)から予科校舎<後の理科専、理学部校舎>の校庭で訓練を受け、また年1回富士山麓に1週間泊り込みの訓練もありました。教練は高等学校、中学校でも行われていました。

 頭髪は、日中戦争下の昭和8年、中学入学と同時に全員丸坊主になり、大学予科でも坊主頭でした。学部は長髪が認められていましたが、日米開戦後は学部も丸坊主になりました。

 徴兵制度は、男子数え年20歳(満19歳)で徴兵検査(身体検査)を受けることが義務化されていて、合格者は兵役に就きました。また昭和16年の日米開戦後には前に不合格になった者にも召集令状(赤紙)が来て兵役に就かされ(病気・身障者は除く)兵役は20歳~45歳でした。ただ学生は卒業まで徴兵検査が免除になっていました。学校で教練の時間を取っていると、兵隊の中で上位の士官に任官出来るということで、教練は必ず受けていました。現実には士官の試験を受けても、なかなか合格出来ずに下士官止まりと言う事が多かったようです。

 昭和16年12月日米開戦の影響で、昭和16年~18年に繰上げ卒業があり、昭和19年3月卒業予定以降の在学生(理工系を除く)は全員、昭和18年の夏休みに身体検査を受け、病気・身障者を除く全員が昭和18年12月1日に陸・海軍に学徒出陣で入隊しました。私も卒業証書は19年3月付ですが、在学したのは前年の昭和18年11月まででした。(卒業式は平成6年の卒業50周年記念に行われた)

 終戦で戦地から復員、世の中が落ち着いて来た昭和30年頃から休日にテニスしましたが、地方に転勤となってテニスも出来なくなり、60歳頃からゴルフを、そして70歳を過ぎてゴルフも止めております。

 OB会名簿に戦死した方や復員しても復学しなかった方が抜けているのは残念です。例えば同学年の篠原惟則君(沖縄で特攻戦死)や清水君(清水善造氏の子息)、ほかにも居られる様に思います。

<参考までに当時の物価は>  注;100銭=1円
*寮の食費 月15円  *間借り 月10円  *アパート 月20円
*ラケット 5円から *ハガキ 2銭 *鉛筆 1銭 *ノート 10銭
*森永キャラメル(20個入)10銭  *板チョコ(現在の1/2)10銭
*学食、池袋の学生相手の店の朝食 15銭  *かけうどん・そば 7銭
*コーヒー 5銭   *カレーライス 20銭
*ランチ・夕食30銭(ご飯お代り自由)
*新宿・銀座の店 かけうどん・そば 15銭 コーヒー 10銭 ランチ 50銭(ご飯お代り自由)
*新宿中村屋 インドカレー 50銭
*タバコ(現ピースのような箱)10本 12銭
* 〃 (現ゴールデンバット)20本 7銭
*大学卒業初任給(月給)60円、

昭和21年貨幣切下げ(デノミ)で、月給500円に。
1ドル=360円(固定)
注;日本経済は戦争により国富の約1/4を失ったほか、生産水準も戦前の2~3割にまで落ち込む大痛手を受け、国民生活は窮乏した。その中で終戦処理費として巨額の財政支出が行われたため、激しいインフレに見舞われた。
<S10年(‘35)の卸物価水準に対して、S20年(‘45)には3.5倍、S24年(‘50)には208倍になる程のインフレ>
このため、物の値段から銭の単位が消え、円が最低単位となっていった。
また、S24年に単一為替レート1ドル=360円が実施された。
以上

<平成18年1月記 >

添付 校内略図
20161126_s17ninomiya_001

写真
予科時代の富士山麓軍事教練での集合写真
昭和13年 夏合宿での5名の写真
昭和16年 部員12名の写真
昭和17年 河野(吉仲)・二之宮2名の写真
昭和18年 江島・野田2名の写真
 〃   天野・河津・二之宮3名の写真
 〃   学徒出陣壮行会の集合写真(25名)
以上7枚