「鈴懸の径」-戦時中の青春練習記―  

提供者: 昭和18年(1943)-岡野利壽。 区分: 寄稿文

昭和18年9月卒 岡野 利壽

 昭和16年4月(1941年)立教大学経済学部に入学した。昭和12年(‘37)7月支那事変(日中戦争)が始まつており、更に昭和16年(‘41)12月8日に日本が真珠湾を攻撃して太平洋戦争が始まり、その戦争の影響もあって昭和18 年(‘43)9月に6ヶ月繰上げ卒業となった。従ってわが大学生活はまるまる戦争の中にあったと言えよう。

 テニスとの係わりは、県立横浜第三中学校時代の5年間は軟式テニスをやっていた。その時学校のそばのYACAカントリークラブ(南隅にクレーコート5面位)で日本人の男性がアメリカの可愛い金髪娘にテニスを教えているのを見て、“やっぱりテニスは硬式だな”と硬式への転向を心に決めていた。明治学院高等商学部を経て、立教大学(経済学部)入学と同時に迷わず硬式テニスの庭球部に入部した。部長は河西太一郎教授、部員は予科・学部合わせて約40名、同級は吉仲(河野)英明君と2人だけだった。テニスコートは校内の1等地(現在タッカーホールの場所)に4面在って、コートの横には歌手灰田勝彦(S18/9卒)が“友と語らん鈴懸の径・・・”と歌って有名なプラタナスの並木が続いていた。

 通学は制服・制帽、黒靴で、冬のオーバーは着てもよかったが、マフラーや茶靴は駄目。今考えると厳しい様だが、その時は当たり前に思っていた。午前中は授業に出て、昼食後の1時から5時までテニスの練習の毎日。ただ当時は軍事教練の時間があり、それはさぼることは許されず、その日は練習は出来なかった。テニスウエアは上下とも白、綿の半袖シャツやウールのセーターなど入手困難の時代で、穴が開けば大事に継ぎを当て着ていた。またシューズも底の傷みが早くて困ったが容易に買う事が出来ず、靴底に穴が開くぎりぎりまで履いていた。

 ラケットはフタバヤ製で購入することは出来た。テニスボールは品不足のため配給制で日本庭球協会から割当分を購入していた、世の中の資源不足の進行と共にボール表面のフェルトが段々とスフ入りの質の悪いものになり、乱打すると直ぐに剥げた状態に、時には表面がべとついて腫れ物状になったりで、本当に困ったものだった事など思い出される。

 帰りには日課のように池袋駅近くのカレー屋に立ち寄り空腹を癒していた。横浜市根岸の自宅(S18/3以降は横浜は危ないと疎開の形で小田原に転居)から通っていたので、真鶴から通っていた1年先輩の露木さん、小田原からの江島君とよく電車が一緒だった。

 昭和18年4月、学部3年になった時、キャプテン吉仲英明、副キャプテンが私、マネージャーは1年下の河津祐一の体制になった。リーグ戦1部は早・慶・明・東の4校、立・法・ほか2校の4校が2部、リーグ戦のほか毎年定期戦で同志社・明治と試合をしていたが、昭和18年には戦争が次第に激しさを増し、確か同志社との対抗戦も中止になったと記憶する。リーグ戦や明大戦がどうだったか覚えていない。(注;関東テニス協会の記録によると、S18~20年リーグ戦は中止)

 昭和18年9月に戦争の影響で半年繰上げ卒業(経済学博士三邊金蔵総長より卒業証書)となった。大学総務課の扉の上壁に数十社からの求人募集が貼ってあったが、祖父の関係会社であった現住友大阪セメントに入社、10月1日より東京駅前の丸ビル内本社に勤務した。その半年後の昭和19年4月に召集令状がきて入隊(陸軍東部第7部隊)、5月以降は朝鮮北部平壌の第42部隊で訓練を受けたが、左足裏を怪我して部隊を離れ終戦の5ヶ月前に突然召集解除となって帰国となった。最初に一緒に訓練を受けた同年兵ほか約1000名は、その後鴨緑江方面へ移動し、敗戦時に全員行方不明になったことを後から知り、運命のいたずらとは言え、誠に幸運の一言につきる。私にとって「軍隊」は運に恵まれた「運隊」であったと思っている。

 5歳のとき父が病死、母は家を出たので祖父母に育てられた。勉強しろと言われたが、スポーツも自由にやらせて貰えた。少ない小遣いの中でテニスのほか野球・水泳・ヨット・スキー、そして後年はゴルフ(大阪支店時代は相当に)といろいろやった。戦後の混乱が落ち着いた昭和26年からは東京・杉並区東高円寺のコートで日曜日・祭日(元日も)には必ずと言って良いほど、会社の仲間を相手に午前中から日没までテニスに熱中した。時には往年の名選手鵜原謙造さん・藤倉五郎さんも来て華麗なプレーを披露してくれた。また2人の息子や娘婿も大学時代(学習院)テニスをやっていたので、しばしば彼等とも一緒に、50歳代半ばまで存分にテニスを楽しむことが出来た。これも偏に立教大学時代、戦争で何かと不自由な中で懸命に練習に励んだお陰であり、テニスと言うスポーツに心から感謝している。

 庭球部(テニス部)創部100周年の2016年には95歳、これまで特にこれと言った病気もせずに過ごして来れた。これからも頑張って100周年を祝う会に元気で盃を挙げたいと思っている。

(平成18年3月記)

写真 : 昭和17年 明立戦 同立戦