庭球部での部活動が人生の支えに

提供者: 昭和13年(1938)-山縣章三。 区分: 寄稿文

 大正2年(1913)9月18日東京・田端で5人兄弟の4番目3男として生まれ現在95歳。当時田端の家の向いにポプラテニスクラブがあり、その辺りに多く住んでいた画家・芸術家達がテニスをやっている姿を小学生の頃よく見ていてテニスに興味を持ち、憧れを抱いたが、それが後年自分自身がテニスが好きになり、懸命に取り組むようになった原点となったような気がする。

 父が農学博士で農大で教鞭を執ることになった関係で、大学に近い渋谷に転居、中学は日本中学に進学、中学時代はテニスはやっていなかった。そののち家が目白に移り大学は立教が近いという理由で、昭和7年4月立教大学予科に入学、同時に庭球部に入部した。目白の自宅から、弁当を持参、歩いて通学していた。当時勿論軟式もあったが、硬式を選んだ理由は、硬式テニスの方がスマートで上品、上級生部員は皆さん他部の上級生と較べて紳士的で格好良かった。練習は当然厳しかったが、厳しさの中に優しさがあり親切に指導して頂いた。お陰で最終学年では全日本にも出場出来るまでになれた。もうこの世に居られないが当時ご指導頂いた諸先輩に大いに感謝している、特に佐久間文男・石川源一郎両先輩(共にS10年卒)には親切にご指導頂いたこと思い出される。また卒業された先輩では藤澤陽蔵さん、北原静彦さん(共にS6年卒)がよくコートにお見えになり指導頂いたが、藤澤先輩はきれいなフォームで、よいテニスをされておられたことが眼に焼きついている。

 テニスコートはチャペルと中学との間(現在タッカーホールの場所)に4面と中学の道を挟んだ向かい側に在った神学院のコートを使って練習していた。練習は厳しく秩序・規律が重んじられ、頭は坊主、タバコ・酒は厳禁、“タバコを吸いたければ卒業してからにしろ”と言われた。

 飽くまでも学業優先で、午後の授業が終わってから練習に。下級生は先ずコート整備で、ローラーを牽いき、ブラシをかけ、ラインの所を箒で掃き、ラインを石灰で引く。ネットはコートを傷めないように数人で持ち上げて張った。ライン引きは職人より上手ぐらいで、何処かの大会で引いてくれと頼まれたこともあった。当時のラケットは勿論ウッドでフタバヤ製が主流、ボールは貴重品でフェルトが擦れ、汚れてきたら、洗ってブリキで起毛し日に干して使ったものだ。

リーグ戦はまだ無く、試合は同志社や各大学との対抗戦と個人戦。全日本選手権にも出場した。シングルスのほかダブルスに同期の田中綱男君と組んだが、いずれも1回戦で敗退した。田中君は関西の出身で中学時代からテニスをやっていたため入学時から相当の腕前であった。

(注)第16回全日本テニス選手権(S12・11・10~19 甲子園コート)
   シングルス 1回戦 山縣章三 1-6 0-6 0-6 山岸二郎(慶大)
   山岸二郎は前年全日本優勝、S12年準優勝<優勝はクラム(ドイツ)>
 
   ダブルス  1回戦 山縣・田中 4-6 3-6 6-4 4-6 塚田・西岡(明大)
                     <日本テニス協会60年史より>

 上級生では佐久間文男さん・桂重臣さん(S10年卒)、田中鐘一さん・伊与田正幸さん(S11年卒)が強く、全日本選手権でも活躍され印象に残っている。最終学年時は私がキャプテン、井上種夫君がマネージャーを務めた。1年後輩の高橋達と組んで鎌倉ローンテニストーナメントで優勝、カップを手にした時の喜びは格別であった。

 池袋二又交番近くの軽食・喫茶の店キシノは立教生の溜り場で、そこに行けば誰かに会えるし情報も得られたのでよく通ったものだ。おやじさんと親しくなり、亡くなられたとき葬式にも行った。池袋駅から豊島師範の前を通り大学に来る途中の蕎麦や朝日屋にもよく行った。住田帽子店は当時からあった。

 S13年3月に卒業し大倉商事(銀座)に就職。テニスも続けていたが、前年(S12年)7月に起きた盧溝橋事件以降、急速に戦争への足音が高まり、遂にS16年12月の真珠湾攻撃から大東亜戦争(第2次世界大戦)に突入、テニスどころではなくなってしまった。

 S18年招集令状によって近衛連隊に入隊した。近衛連隊は天皇・皇后はじめ皇族方の護衛のための軍隊で素性・素行が重視されたが、父が大学教授であったことで近衛兵になれ、戦闘激しい戦地に行かずに済んだと思う。入隊直後直ぐに現在の韓国・北朝鮮の国境付近に訓練のため3ヶ月。庭球部で重んじられた規律、厳しい練習で鍛えられた精神力・体力が大いに役立ち、厳格な規律や長時間の行軍も苦にならなかった。上官から“見掛けによらず強いな、お前何をやってたんだ“と言われ、気配りがよいと頼りにされた。訓練を終え宮城(皇居)の警護に当たっていたが、皇族が外地に出られるとき随行、満州(現在の中国北西部)・朝鮮(現在の韓国・北朝鮮)やフィリピンにも行ったが、長くて10日間ほどの出張のようなものであった。終戦時も宮城内の警備に当たっていた。

 終戦時は三菱商事系の大成水産(丸の内三菱仲五号館)に勤務。さらに日本製罐に転職。
 若い頃から足を大切にし、足の手入れに怠りなかったことが、高年齢までテニスを続けることができ、95歳まで長生きできた長寿の秘訣と考えている。

これまでの人生で印象に残る出来事・体験としては、

第一に、大正12年9月1日、10歳のときに起こった関東大震災。家は倒壊を免れたが、小学校の校舎は傾き、食料不足が長期間続いて大変な思いをしたこと。
第二に、戦時中、近衛兵として警備で宮城内の隅々を歩き、また外地で皇族の身近で警護に当たったこと。
第三に、立教大学庭球部で厳しい規律・練習に耐え、個人戦・対抗戦に出場し、全日本に出場することが出来るまでになれたこと。立教大学庭球部での部生活があったればこそ、戦争時を含めその後の人生の総てに良い影響をもたらし、70歳近くまでテニスが楽しむことが出来たものと大いに感謝している。創部100周年を心から祝福する。        以上

H20年(‘08)12月5日山縣章三様居住の老人ホームを岸本駿二・小野眞義が訪問、13時20分~15時30分自室で質問に答えて頂き寄稿文の形式に纏めた。