テニス部創部100周年に寄せて

提供者: 昭和19年(1944)-天野胖。 年度: 昭和19年(1944)。 区分: 寄稿文

昭和19年3月卒 天野 胖
(S18/12 学徒出陣)

昭和13年、本来なら4月入学のところ、病気のため半年遅れの9月に立教中学より編入試験を受けて立教大学予科に進学しました。当時の池袋駅は、東口の西武百貨店も、西口の東武百貨店も無い小さな駅で、駅西口改札を出ると正面に商店が並んでいました、そこを右手に行きますと池袋駅北側直ぐの山手線を横断する踏み切りのある大通りに・・・、左手に行くと直ぐに豊島師範学校(現在バスターミナル・東京芸術劇場の在る一帯)に・・・。

通学は大通りの方からでも行けましたが、遠回りになるので、左手、豊島師範の方に行って、師範の板塀沿いの狭い道を歩き、二又交番(現在も在る)の所に出て学校に行っていました。二又交番の大通りの向い側、商店が並んでいる中(交番の直ぐ右向う)に「キシノ」という喫茶店があって、立教の学生の溜り場となっていました。「キシノ大学」に行けば友達に会えたし、友達の動静も分かり、授業の様子や内容、試験の範囲などの情報も入手出来るのでとても便利な所で、「キシノ」には頻繁に通いました。

テニスは立教中学の2年生の頃に始め、最初から硬式でした。大学予科に進学して直ぐに庭球部に入部。予科2年の時からレギュラーになり、インカレなど各トーナメントに出場するようになりましたが、練習は大変厳しく、二人の上級生が左右に打ってくるボールを懸命に追いかけて返球する・・・その連続で、体力の限界までコートを走り回りました。そのお陰でレギュラーに成れたのだと思います。

当時は学部になると午前中の授業を終えて、1時頃から夕方までテニスの練習でした。へとへとになって、ネットの片付けやコート整備を済ませ、近くの銭湯で汗を流し帰宅して居りましたが、帰りの駅の階段は手摺に掴まりながらやっとホームに上るといった状態でした。

昭和18年3月、前主将の河野(吉仲)英明先輩が卒業された後、主将に任命されました。マネージャーを河津祐一君に、二之宮景正君には体育協会との連絡などの渉外関係のマネージャーをお願いしました。

昭和16年12月に開戦した太平洋戦争は、戦線が拡大して行きましたので、学生にも学徒出陣の命令が下されて、昭和18年12月1日付で広島県宇品に在る船舶砲兵隊に入隊。輸送船で教育隊の有るフィリッピンの南の島パナイ島に向かいました。途中米国潜水艦の攻撃を受けたり、やっと何とか難を逃れて到着したその夜にゲリラの襲撃を受けたりで散々でしたが、何とか無事に現地で教育訓練を受ける事が出来ました。

昭和19年3月頃、幹部候補生の試験が行われましたが、中学・大学で教練の時間を取っていたお陰で甲種幹部候補生に合格。千葉の高射砲学校に入学しました。翌年1月そこを卒業し、広島県福山に在る連隊に入隊。そこで少尉任官となりましたが、1ヶ月後の昭和20年8月に終戦となりました。

終戦復員後、復学はせずに就職。程なくテニスも再開して新聞社主催のトーナメントなどに出場しましたが、2年以上のブランクは大きく、3回戦か、良くて準決勝止まりでした。

とに角長い歳月が経過し、途中に戦争に参加させられると言う不測の事態にも直面したりしましたので、学生時代の記憶も薄れてしまいましたが、思いつくまま筆にしました。(平成18年3月記)

以上